- 2017-08-03 (木) 11:01
- 2017年レポート
- 開催日時
- 平成29年7月28日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「力」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、伊藤、望月
討議内容
今回は力について議論した。力という言葉で第一に連想されるのは、物理的力であろう。引力、重力、電磁力といった力は、物と物とを結びつけている物理的な力である。こうした力以外に、人間とかかわった力がある。権力、威圧力、行動力、知力、創造力などなど、人間社会や人間自身とかかわった力がある。こうした力は、根源的には同じ何かにかかわっているのであろうか。それとも物理的力と、人間とかかわった力とは、根本的に違っているのだろうか。
物理的な力は、目に見える作用としてよくわかる。ボールを高く投げ上げると、自然に落下してきて、そこには地球がボールを引き付けるという引力の存在が目に見えてわかる。中学校や、高等学校で習う地球と月との係わりや、潮の満ち引きなど、地球と月との間に引き合う力が働いていることを具体的にとらえることができる。でも、そうした具体的に見えているものをとらえても、力そのものは見えてはいない。確かに月と地球とは引き合っていて、そこには力と呼ばれているものの存在を推測することはできても、力そのものをとらえているわけではない。地球と月、太陽と地球、そして、数えきれないほどの星々との間に、力は絶えず働いている。そして、バランスの取れた宇宙を作り上げている。そのバランスを生み出している力の源は一体何なんだろうか。
力の存在をとらえるためには、少なくとも二つのものの存在が必要であろう。地球と月の間に働く力は、地球と月とがともに存在して初めて力が働いていることを見ることができる。この宇宙に地球しか存在しなかったとしたら、そこでは力の影も形もとらえることはできまい。こうしたことを考えると、力は、複数のものが存在することによってはじめて、それらの係わりの中にその姿を間接的に現してくるということがわかってくる。
さて、その力を、今度は人間とかかわる力に向けたときにはどうだろうか。そこにも、物理的な力と同じように、複数のものが存在して初めて力が生まれてくることがわかってくる。権力にしても、複数の人間がいて初めて権力なる力が生まれてくる。魅力という言葉にしても、その人一人だけの存在では、魅力があるのかないのか、まったくわからない。わからないというより、魅力自体が存在してはこない。魅力的な人とは、人を引き付ける何かを持っている人だが、その人が発しているある何かを、他の人がとらえ、感じることで初めてその人が魅力的であると判断される。
下山さんは、子供がお母さんのお手伝いということで、買い物をするTV番組を見て、子供の生きる力を強く感じるという。何もわからない子供が、未知の世界に挑んで行く姿に、生きる力を感じるという。その生きる力の源は、お母さんのため、人のために役に立とうとする心から生まれてくるものであろう。そこにも、見えざる人の存在がある。
世のため人のためという言葉が物語るように、人は、誰かのために役立とうという無意識的な衝動を常に抱いているのではないだろうか。その見えざる人がいてくれるから、様々な仕事が生まれ、そこに行動力、指導力、意志力といった力がかかわってくる。科学研究にしても、技術開発にしても、そうしたものの先には、見えざる人の存在がある。
こうしたことを考えてくると、力というのは、物理的な力であっても、人間的な力であっても、根本的には、複数のものを一つにまとめ上げるものということになってくる。そうすると、それは、愛そのもののように思えてくる。相手を思いやり、みんなと融和した世界を作り上げる愛。その愛こそ、力の源のように思えてくる。
ただ、その一方で、磁気力に見られるように、N極とN極とでは互いに反発しあうという斥力が働く。人間にしても、憎しみは人と人とを離れ離れにさせてしまう。それは、心と心の間に働く斥力であるが、暴力という力は、憎しみから生まれてくる力である。ただ、憎しみからは、人間社会になにも生みだしはしない。そこには破壊があるだけだ。やはり愛としての心と心とを結びつかせるものがあって、初めて全体を一つのものに融和させる力が生まれてくる。そういう意味で愛は人と人とを結びつける引力なのであろう。
この世は、引力と斥力の二つの力が微妙にかかわりあいながら、調和する世界を作り上げているように思える。最新の宇宙物理学は、かって言われていた引力だけの世界ではなく、斥力も存在していることを明らかにしつつある。引力と斥力とが行ったり来たりしながら、全体で一つの調和した世界を作り上げている。
ただ、こうして考えてくると、愛の存在が不自然なものになってくる。引力と斥力とがともに存在しながら、絶えず調和した世界を作ろうと働きあっている、その営みこそ愛のように思える。それは、陰陽二元論とも相通じるものがあるが、その陰陽二元論の根源に存在しているといわれる太極こそが、全体を一つのバランスの取れた状態にしているものであり、それこそが愛なのではないだろうか。すなわち、根源に全体で一つのものにしようとする愛があり、その愛の現れが、善と悪、引力と斥力、思いやりと憎しみといった相対峙する二つの力となって表出しているということなのかもしれない。愛があるから、悪を許すことができる。それは、行き過ぎた斥力を引力によって引き戻し、全体として調和した世界を作ろうとする愛の営みのように思える。いずれにしても、物理的な力にしても、人間とかかわる力にしても、その根源には、全体を一つの調和したものにしようとする共通の働きが存在しているようだ。
次回の討議を平成29年9月15日(金)とした。 以 上
- 新しい記事: 第25回≪人間文化研究会≫開催案内
- 古い記事: 第24回≪人間文化研究会≫開催案内