- 2015-03-25 (水) 20:04
- 2015年レポート
- 開催日時
- 平成27年3月13日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「自由」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、大瀧(ち)、吉野、吉野(基)、望月
討議内容
今回は新たに、吉野基宜さんが参加してくれました。吉野さんは、樹木医として、樹木の診断や庭園設計などに携わっているとのこと。様々な問題に関して議論することが好きということで、本会においても、新鮮な議論を期待しています。
今回は自由について議論した。自由について議論する前に、出席者一人ひとりに、現在自由であるのか否か、もし自由でないとするなら、何が自由を妨げているのかについて述べてもらった。そうした意見で、ほぼ共通していることは、経済的なことによって自由が妨げられているということだ。働かなくては、食べてはいかれないから、どうしても働かなくてはならないが、そうすると、自分の好きなことがいつでもできる状況ではなくなってしまう。会社に身を置いていること自体、すでに不自由な身に感じてしまう。
その一方で、自由の身であると断言する下山さんは、働かなくても、生活していける状況の中で、好きな映画を何時間も鑑賞することができていて、自由の身であると感じているとのこと。でも、その一方で、あまり長い時間、映画鑑賞していると、健康を害するのではないかという心配が、心の底から湧き上がってくるという。それと同時に、それとは別に、何とも表現できない未消化のような感じが心の底に生まれてくるらしい。それがなんだかは分からないけれど、好きな映画鑑賞を時間を忘れてやり続けていると、罪悪感ではないが、それと似たような心を感じるらしい。
かってパチンコに凝った私自身の反省として、パチンコに凝っている時には、自分が好きなことができていて、自由の身であることを感じ、楽しさに心は満たされているのだが、それを毎日続けていると、段々と罪悪感のようなものが押し寄せてきて、もっとやるべきことがあるのではないのか、時間がもったいないではないかといった心の叫びが聞こえてきた。それは、快楽の渦に巻き込まれながら、あたかもそれが自由であるかのような錯覚に陥っているのだが、心の底では、人間としてなさねばならない何かに気づかせようとする力が働いているということであろう。
こうした心の動きを考えてみると、一見楽しみと思えることをすることが自由だという気がしてしまうが、そうした楽しみを続けていると、それは、単に快楽を追求しているだけであって、自由とは程遠いことが分かってくる。むしろ、快楽におぼれることによって、不自由な身であることが見えてくる。それは、人間として本来なさなければならないことをなしていないことに対する反省の念でもある。
では一体人間として本来なさなければならないことというのは何なのだろうか。それを考える前に、人間以外の生物、たとえば蟻や蜂は自由なのだろうかを考えてみた。蟻の動きに少しばかり目をやると、一時も立ち止まることもなく、せっせと動き回っている。ある蟻は、自分の体より大きな食べ物を必死で巣に持ち込もうとしているし、数匹の蟻が、小さな葉っぱの一部を右に引っ張ったり、左に引っ張ったりして、一生懸命働いている。彼らは自由の身なのだろうか。誰が命令しているわけでもないだろうに、彼らは一匹一匹とにかく動き回っている。でも、たぶん、彼らはそれを不自由とは感じてはいないであろう。なぜなら、そうすることが本能であるからなのではないだろうか。すなわち、本能に則って行動しているとき、それが自由ということではないのだろうか。そうすると、人間にとっての自由というのは、人間としての本能に則って行動することということになってくる。では、一体人間の本能とはなんなのだろうか。
本能というと、食欲や性欲を思い浮かべるけれど、それは人間に特有な本能ではないだろう。それは、生物に共通した本能であるから、人間特有の本能は、他にあるはずだ。パチンコに凝っている時に、他にすべきことがあるのではないかという心の底からの叫び、それは、人間の本能に気付かせようとする心からのメッセージではないだろうか。
マズローの五つの欲求の最終欲求に自己実現の欲求というのがあるが、その自己実現こそ人間特有の本能と係わっているのではないだろうか。持って生まれたままの精神状態ではなく、知恵を育むことによって、精神的に進化させ、自己との邂逅を果たすこと、それは、仏教の世界で言われている悟りの世界なのかもしれないが、その自己の心に立脚した上でする好きなことこそ、本当に好きなことであり、その好きなことをやれる環境にあることが、蟻や蜂と同じように、人間としての本当の自由ということではないだろうか。
ただ、自由ということの中には、そんなにも重たい意味での自由ではなくて、表現の自由、職業選択の自由、思想の自由といった自由がある。こうした自由は、他者からの束縛を受けないという意味での自由であろう。ただ、こうした自由には、他者との係わりがあるために、自ずから、そこには責任や相手への思いやりといったモラルが係わってくる。こうしたことを考えてくると、自由には、個人と係わる自由と、社会との係わりで生まれてくる自由とがありそうだ。
次回の討議を平成27年5月22日(金)とした。 以 上
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