- 2005-04-08 (金) 1:05
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
社会が、肉体を通した経験をもはやそれほど多く必要としなくなっているのかも知れない。コンピュータやロボットがまだ未発達だった時代、多くの事柄は人手を介してなされていた。そこには、熟練者だけに与えられる見えざる勲章があった。その見えざる勲章に尊敬の念を抱き、若者達は、大人達の指導を仰いだ。しかし、現在はその熟練者をもはや必要としなくなってきている。それは、社会が、利便性を追求していたインフラ主体なものから、情報を扱うより知的なものへと変化してきているからであるといえよう。そういう社会変化の中で考えてみると、経験だけを頼りに、新しく創造する営みを辞めてしまっている人達は、社会という一世界の中で老いの状態にあるのかも知れない。
肉体的な退化とは別に、私達の感覚機能も年と共に退化してさていることは確かである。耳が遠くなったり、目が悪くなったりといった機能的なものの他に、色彩感覚が鈍ったり、高い音が聞こえなくなったりなど、感性と係わりの深い情報までも次第に切り落としてきているらしい。また、時代変化と共に、若者達と年輩者達の嗜好性も大きく異なってきているようだ。風鈴や雨音を快く感じる年輩者に比較して、若者達の中には、パソコンのキーボードの音の方を快く感じる人が増えているらしい。美意識や老いも社会環境と共に変化しているのであろう。
年とることは、感覚器官が鈍くなったり、運動機能が退化したり、悪いことだらけなようだが、人間関係が豊かになるという点ではメリットがありそうだ。奥田さんは、20数年ぶりに、アメリカの大学の同窓会に参加し、当時の仲間と素敵な時を過ごされたそうだ。それは、年とることによって得られた無上な喜びであったという。年とることの良さは、懐かしさに心を酔わせることができる。そして、その快さは、時というフィルターが、当時経験していた様々な苦しみや悲しみといった汚れた心を洗い清め、打算のない純粋無垢な心に導いてくれるからなのかも知れない。
老いることは、肉体的な退化はあるものの、精神的には何等かな成長があるのであろうか。私達が見かける年輩者には、様々なタイプがあるが、我欲との係わりによって、大きく二つのタイプに分けることができよう。一つは、我欲を抑制し、心静かに生きていくタイプと、もう一つは、それとは逆に、我欲のおもむくままに行動をとるタイプである。前者は、心穏やかな老いを迎える人であり、後者は、頑固ものと言われワンマンとなっていく人である。どちらを選ぶかはそれぞれの人の人生との係わりからくるものであろうが、高齢化社会の中では、脳の病気がクローズアップされているように、脳自体が退化し、いままで機能していた抑制力が鈍くなり、後者の老人が増えていくことを懸念する。
老いは、一個人だけの問題ではなく、社会の中にも老いの現象がありそうだ。駅のプラットホームや街角で、高校生の男女が抱き合っている光景をここ数年の間に特によく見かける。恋人同志が街角で抱き合う光景は、欧米では日常茶飯事であるが、日本ではここ数年の現象であろう。恋人同志が人前で抱き合うことが悪いとは言い切れないであろうが、抱きしめたいという欲求とそれを自制しようという働きとが絶えず心の中で葛藤しているのが人間的なように思える。その自制心を促しているものが、自分自身の価値観と言うよりも、社会的な慣習というか規範の中で行われていたように思える。その社会規範が、自由と称して取り除かれていく陰に、自制心のない社会が築かれていくような不安を感じる。欧米での離婚率の高さも、社会規範の中に、それを防止する力がないことによろう。日本も、これから自由の代償として、社会的規範がなくなっていく方向にあることは間違いない。社会的規範によって自制できていた行動が、社会規範が希薄になったことで、欲求のおもむくままに行動に走る人達が多くでき、それによって社会が乱れていくことを懸念する。人間にしても、社会にしても、自制する力が内在していないことは、ある種の老化現象なのかも知れない。
多くの人は、肉体的老化を避けようと、スポーツにジョギングにと日々はげんでいるが、精神的老化を避けるための営みを老人になる以前からなしている人は少ない。それは、筋肉活動が日々の活用によって、老化を防ぐことが分かっても、如何にしたら精神的な老化を防ぐことができるのかを真剣に考えることが少ないからではないだろうか。また、肉体的老化は、運動機能の衰えや、感覚器官の衰えによってはっきりと掴むことができ、それによる不自由さを身を持って感じることができても、精神的老化は、はっきりとした不自由さを感じることができないからなのかも知れない。そして、その精神的老化が起こったときには、本人には全く自覚がない状態になっているということも言えよう。同じように、日本という国が、物や経済といった肉体的老化を防止できたとしても、思想や文化あるいは秩序といった精神的老化現象を他の民族が見つめるほどには、はっきりと掴みきれていないのではないだろうか。個人的にも、社会的にも、肉体的老化防止は勿論であるが、精神的老化防止に日々努力したいものである。
お陰様で、次回、人間文化研究会も50回を迎えることになりました。50回を記念しまして、いつもの会を拡大した形で、50回記念大会を予定しました。開催日は11月14日(木)14:00〜17:00、会場は早稲田大学国際会議場にて行います。テーマは、人間文化研究会にふさわしいものにしようと現在検討中です。皆様方は勿論のこと、皆様のお知合いの方もお誘いの上参加宜しくお願い致します。詳しい案内は別途お送りしたいと考えています。
以上
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