- 2005-04-09 (土) 1:39
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年4月23日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 霧島、広野、土岐川、鈴木(智)、西浜、山崎、水野、城芽、吉田、村上、ラジカル鈴木、佐藤、望月
討議内容
今回は、城芽さんが50回大会に引続き参加され、また新たに、ラジカル鈴木さんが参加されました。城芽さんは、イラストレータとして活躍されています。毎年8月、平和への願いを込めたポストカードを制作し、友人や周りの人達に送るというピースカード実行委員でもあります。様々な人達から送られてきたピースカードの展示会もいくつかの美術館で計画されているとのことです。ラジカル鈴木さんもイラストレータで、特にパソコンを使ったイラストを手掛けており、御自身の名刺はユニークなイラストが描かれた可愛らしいものです。物事にアクティブに取り組むと言う意味でラジカルという名前をつけたのだそうです。右脳を活性化されているお二人の参加によって、この会が益々左右バランスのとれた研究会になることを期待しています。
今回は、前回に引続き生命について議論した。前回議論したように、生命には、科学的立場からみる命と、悠久なる宇宙と一体化した分解不可能な命とがあり、この二つの感覚が私達の生命観の根底にあるように考えられる。そのことと深く係わっているのが、臓器移植や脳死の問題であろう。臓器移植を是とする考えには、臓器障害で生死の境にいる人達を救うことへの思いやりが主となっているのに対して、臓器移植を非とする考えには、臓器は部品として単属に生命活動をしているのではなく、人間の生命を構成する一要素として、全体と切り離すことの出来ないものであると言う考えであろう。前者は、思いやりという切札を根底として、生命を分解可能なものであるとしているのに対して、後者は、自然、それを神と表現してもよいのだが、その自然が、自然の摂理に則って形作ってきたものに、人間の浅はかな知識や技術が関与して行くことへの抵抗であろう。
また、脳死に関しても、その判断基準において、上で述べた生命観がその根底に流れている。まさに死を迎えようとしているその人の家族にとって、たとえ脳の機能が止まってしまったとしても、他の臓器が動いている限り、それを死としてはどうしても認められないという考えが暗黙の内に流れている。そこには、生命と言うものが、単に一部品の終わりを持って終わるのではなく、体全体に流れているある営みに対して生命の存在を感じているからではないだろうか。脳が完全に死んでしまい、再び元気な姿にかえってくることはないと分かっていても、まだ心臓が動いていたり、血液が流れていたりするその営みの中に、家族は、その人がまだ死んでいないと言う感じを抱くのではないだろうか。肉体的には、死に向かっていたとしても、それを見守る人達にとってはその人の命は生き続けているのである。物理的な生死の判断と、精神的な生死の判断との間に大きな時間差があるのであり、物理的な生死の判断をデジタル判断だとするならば、精神的な生死の判断はアナログ的であり、それが臓器移植を受ける側からして見れば1分1秒を争うデジタル判断を要求してくるであろうし、死を迎えている人の家族にとっては、アナログ的な判断を願うのである。
以上のように、私達の死生観、生命観には、肉体の立場から考えるものと、精神の立場から考えるものとが混在しているように思える。そして、その根底には、日本人なら日本人の死生観が横たわっているものと考えられる。以前シベリアの地で、乗客の全員が死亡するという飛行機事故があったが、日本人家族だけが、その事故があった場所に行くことを望んだそうだ。日本人にとって、家族の死亡した場所に行くという行為の中には、死を本当に確認したい、死者をその地に行って慰めてやりたい等様々な思いが込められているのであろう。そして、その行為するという心の奥深いところには、肉体と精神とは切り離すことが出来ないという生命観が漂っているように思える。肉体のあるところ、遺品の残されているところに、まだ心が生きているのではないのか、家族が来てくれることを願っているのではないのかという、家族愛を感じさせるものがあるように思える。
この日本人の生命観を生み出している源には、農耕民族、定住民族としての血が深く係わっているのであろう。地鎮祭とか、地縁とかいったように、生活する場と生命活動とが極めて密接に結び付いているように、日本人は、場と心との結び付きが狩猟民族、移住民族に比較して強いのではないだろうか。そして、場との係わりの中で、山、川、岩といった自然物の中にも生命は漂っているという生命観を生み出し、その係わりが、死体という物理的なものの中にも、生命は宿っているのであるという考えを生み出しているのではないだろうか。
遺体の埋葬にしても、日本人の死生観、生命観との係わりが深いものがある。最近ロケットに遺骨を載せて、宇宙に飛ばし、自然消滅する散骨が報道されたが、参加したメンバーに自分自身の散骨について聞いたところ、宇宙の彼方に散骨されることや、海に散骨されることを選んだ人の割合が高く、いままで生活していた地の近くに散骨されることを願った人は少なかった。これに対して、親族の散骨になると、自分の身近なところに散骨されることを願う人の割合が圧倒的であった。
自分の場合には、宇宙や大海に散骨してもらいたいという人の考えの中に、死によって自分の肉体を離れた魂が、宇宙の彼方へと出発しているのを肉体である白骨が追いかけて一体化したいという思いを感じている人もいる。死者のたましいを表現した言葉に、魂魄(こんぱく)という言葉がある。魂という宇の偏(云)は雲の省略形であり、空の彼方に放たれたたましいを表現しているのであろう。これに対して、魄という字の偏(白)は白骨を意味しているとのこと。空の彼方に放たれたたましいが魂であり、この地に残されたたましいが魄である。この二つが一つになってはじめてそこにたましいがあるのだということなのであろうか。ロケットによる散骨を願う気持ちを抱く人の心の根底には、魂と魄との一体化を願った直感があるように思える。お墓参り、魄を前にして祈るその営みの中で、人は無意識の内に、魄と魂とを一体化させているのかも知れない。
先に述べたように、散骨に対する考え方が、自分の場合と、家族の場合とでは少々異なっているようだ。自分自身の場合には上で述べたように、自身の直感によって、魂と魄とを一体化させようとしているのに対して、家族に対しては、魄を身近に置いておきたいという心が生まれてくる。そこには、家族愛と称しながらも、エゴと係わる愛が見え隠れしているようにも思われる。
かも鹿は、子供が生まれると一年間だけは身近において育てるが、三年が過ぎると、子供といえども親の縄張り内に入らせないそうだ。それが、子供の幸せを願っての本能的営みなのであろう。そこには、我欲的な愛は微塵も感じられない。我々は、エゴ的愛を神的な愛と錯覚しているのかも知れない。このあたりに、始めに討議した脳死や臓器移植の問題が深く係わっているのではないだろうか。
さて、私達人間には、自分を意識できる意識活動があるが、草や木には生命があるのであろうか。自己増殖して行くという生物学的な生命が宿っていることは確かであるが、はたして、人間と同じ様な意識があるのであろうか。また、人間の生命は、これら動植物とどの様な係わりをしているのであろうか。これらを考えて行くと、生命というものと意識との係わりがクローズアップされてくる。
私達の意識が存在しなければ、私達は、ものを見たり、音を聞いたり、香ばしい香りに引き付けられたりすることはあるまい。さらに、私達の精神活動がなければ、この世の中には何も存在していないのではないだろうか。意識と生命との係わりもそんなところにあるような気がする。草木に生命があるとすれば、草木を見、草木の音を聞き、草木が放つ香りを感じる中で、私達の意識に登ってくる感動や快さが、まさに草木の命ではないだろうか。私達は、日常、無意義ではあるが地球の引力を感じながら生きているし、宇宙との係わりを感じながら生きている。すなわち、私達の体そのものが、森羅万象と係わるセンサー的な働きをしているのである。そして、そのセンサーによって感じ取るものが生命なのではないだろうか。
私達を取り巻く環境は、微視的なものは原始や分子、さらにはそれよりも小さな素粒子といわれる世界から、大は、果てしなく続く宇宙まで様々であるが、その宇宙の持つエネルギーの中から私達人類は生まれ、そして意識は芽生えてきた。この流れを素直に見つめてみるならば、私達の意識は、実は、終わりのない宇宙生命から生まれてきたものであり、その意識は、宇宙生命の中に秘められた様々なものを意識させるためのものではないのだろうか。元々混沌として見えるかの宇宙生命は、その混沌さをもたらしているのは人間の無知からくるものであり、人間が、この宇宙と一体化するとき、その混沌さは、シンプルな秩序あるものとして感じられるのではないだろうか。それは、ウロボロスの円に象徴されるように、無意識を意識化する人間の営みでもある。そして、究極は、宇宙生命の根源と一体化し、それを心に感じることであろう。その感じ取った世界こそ、悟りの世界なのかも知れない。私達の葛藤は、このような悠久なる宇宙生命を内に感じ、その一方で、有限な生と死のある生命観に執着しているところから生まれてきているように思える。
生命に関しては今回を持って終わり、次回は、「愛」について議論したいと思います。
次回の会合を6月4日(水)とした。
以 上