- 2005-04-09 (土) 2:05
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年12月5日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、土岐川、吉田、村上、佐々木、内田、下山、佐藤、望月
議事内容
今回は働くということをテーマに議論した。働くという言葉は、通常は、お金を得るために何かをするという労働の意味相が強い。英語には、workと1abourという言葉があって、前者は仕事をするという意味であり、後者は賃金を得る為に働くという意味で、賃金を得るために体を動かすことと、何かのために体を動かすこととを区別しているようだ。多分、この両者をはっきり区別している西欧は、元々契約的な社会が根底にあり、労働を提供することに対して報酬が与えられるということをはっきりと表現しているのであろう。これに対して、日本人の場合には、農耕民族の持つ社会的な特徴がその根底にあるのであろうか、労働と賃金ということが曖昧にされた表現になっているものと考えられる。畑を耕し、食物を得るという営みは、元々は、誰の命令によるものでもなく、自分達の生活を維持するための自主的な営みである。お金という契約的なものと働くということを直接結び付けるのではなく、生さていくための糧を得ることに対して働くという言葉を用いてきたのではないだろうか。
働くという言葉と係わる言葉に稼ぐという言葉がある。稼ぐというのは、お金を得るために体を動かすことの意味相が強いが、田舎で使われているこの言葉には、田畑に出て、草をとったり、土を掘り起こしたり、とにかく作物を育てるために体を動かす営みに対して用いられていたようだ。今では、稼ぐという言葉がお金と結び付いた営みになっているが、その昔は、やはり、自分達の生活を維持していくために作物を育てる行為に対して使われていたのであろう。働くという言葉には、日本人としては、どうしても田畑と関連付けたくなるような響きがある。確かに、魚をとったり、木ノ実をとったり、獲物を獲得したりすることも働くことに違いないが、日本人には、やはりこれらの営みよりも、田畑との係わりに働くという言葉を結び付けたくなるのではないだろうか。いずれにしても、生命を維持するための糧を確保するための営みが、働くということの基本にはあるようだ。
まだ、我々の社会が、食糧を求めることだけで精一杯であった時代においては、働くことの多くは、食物を得ることと深く係わっていた。しかし、我々の社会環境が向上してくるにしたがって、生きて行く上で様々な欲求が生まれてきた。多分それは娯楽や利便性と深く係わってくるものであろう。そして、この娯楽や利便性を支えるための様々な仕事が生まれ、その仕事の営みに対して代価が支払われ、それによって、食物を手に入れることが出来るようになってきた。この娯楽や利便性を支える営みに対しても、働くということが言われるようになってきた。そして、始めは、働くことが、一家族や身内の者の生命維持確保のための営みであったものが、他の多くの不特定多数の生命維持確保のための営みになってきた。娯楽や利便性を提供する人も、その娯楽や利便牲を求める人のために、自分の労働を提供するということに変化してきた。この変化は、産業革命後、第二次産業を生み、様々な職業を加速的に生み出してきた。そして、これらの職業と係わる営みに対しても働くということが言われるようになった。
生命維持としての食物の確保は、人間だけではなく、動物においても自然に行われている。これに対して、人間だけが持つもう一つの生命として、精神世界がある。この精神世界の糧を得ることも働くことと深く係わっている。娯楽、情報、教育、さらには、宗教的営みにおいても、我々に働きかけ、我々のこころを豊かにし、こころの支えとなっているものである。これらを提供している人達も、食物を生産している人達と同じように、我々人間の生命を維持することと深く係わり、働いているのである。
働くということと対象的な言葉として遊ぶというのがある。人間社会が、食物や機械的なものの確保が主体に動いていた時代、すなわち、第一次産業や第二次産業が主体的な時代にあっては、働くということと遊ぶということの間には大きな溝があり、仕事と遊びとは、はっきりと区別されていた。しかし、人間の営みが肉体的なものから精神的なものに移行するにしたがって、仕事と遊びとの区別がつきにくくなってきているようだ。情報化社会の中で、情報を創造したり、イベントを企画したり、芸術的な作品を生み出したりするような創造的営みは、楽しみながら働く、すなわち、遊びと仕事とがはっきりと区別できにくくなってきているように思える。また、第一次産業や第二次産業においても、工夫という係わり、すなわち創造的に係わることによって、楽しみながら働く機会が増えてきている。サラリーマンをやめ、田舎の地で農業を営む人達が増えてきているようだが、これらの人達の農業との係わりは、知恵を使い、楽しみながら食物を収穫するという営みになってきているようだ。このようにみてくると、人間の働く営みの中には、動物には決して出来ない、知恵を使った工夫というものが係わっているように思える。
また、働くこととして大切なことのもう一つの要因として、他者に対する働きかけが係わっているということである。無人島に一人住んで、自給自足の生活をしている人の営みは、働くという言葉の中には含まれないようだ。これと同じように、一人、仏との邂逅を求めて修行に励む僧侶にしても、他者への働きかけがない状態では、働いているとは言えないであろう。この僧侶が、修行を終え、社会の人々に何等かな形で影響を与えるとき、その営みは働くことになってくるであろう。また、学生にしても、この修行僧と同じように、学んでいるのであって、働いていることにはならないであろう。
このようにみてくると、働くことは、他者への働きかけであり、その働きかけには様々な形があり、それが様々な仕事となって現れているのであろう。そして、同じように生命維持のために動き回っている動物や昆虫の営みと、人間の営みとで異なっているのは、人間は知恵を使い、工夫しながら生命維持のための営みと係わっているということではないだろうか。そして、その知恵との係わり方が、同じ働く営みの中で、その働きを苦痛なものにしたり、楽しいものにしたりしているように思える。
いずれにしても、働く ということには、結果として、何等かの報酬を得ることを目的とした営みである。同じ営みであっても、報酬を目的としていなかったならば、それはボランティアとか、奉仕活動であるとか表現されてくるものになってこよう。そして、報酬を目的とした営みではあるが、これまで見てきたように、そこには、一人一人の人間としての知恵が加味された活動であるということである。そして、人間は、働くという営みを通して、生物の中で人間しか持たない知恵を開花させてきているのではないだろうか。
次回の開催を平成10年1月28日(水)とした。
以 上
- 新しい記事: 第59回 「大人とは」
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