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第70回 「人類の目指すもの」

開催日時
平成11年11月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
新宿住友ビル・住友スカイルーム
参加者
広野、塚田、土岐川、水野、山崎、桐、内田、徳留、市川、宮澤、前田(園)、松本、大原、高須、矢田堀、泉谷、久保、高橋、安立、藤島、佐藤、望月

討議内容

人間文化研究会がスタートして丸9年、今回は、70回記念大会ということで、多数の皆様にお集まり頂き、活発に討議することができました。

今回は「人類の目指すもの」と題して、様々な角度から議論を行った。表題を人間としなくて人類としたのは、目指すものが、今を生きる一人ひとりの中にある個々人の欲望や夢といったものではなく、生命進化の営みの中で、今を生きる一人ひとりに共通していて、それが人類の向かう核となる方向性を持ったようなものがあるのかどうかということに関して議論する意味からである。

人類は、はたして何か目的的なものを目指して今を歩んでいるのだろうか。それとも、目的など全くなく、ただあるがままとして、今を生きているのだろうか。ただ、地球が誕生して46億年、そこから、この地球上に様々な生物が誕生し、その生物進化の中から人類が誕生してきたことを考えるならば、人類の目指しているものが何か暗黙の中に秘められているとも思える。また、私ってなぜ生まれてきたのだろうかとふと思うことがあるが、その思いの陰には、生きることの意味を求める無意識の動きがあるし、そこに何か人類が目指しているものがありそうにも思える。

人類は、その誕生以来、何百万年という長い年月をほとんど食料の獲得に携わってきた。その歩みの中から、道具や言葉を生み出し、それとともに、様々な職業を誕生させてきた。そして、現在のように、食料を直接獲得する仕事以外の仕事が増えて、人間の欲しい物を次から次へと生み出してきている。私達の欲求は留まるところを知らず、その欲求を満たすかのように、新しいものが次々に世の中に登場してきている。まさにそこでは欲求と製造との競争がなされているのである。しかし、その溢れる物の中に生活していて、私達は次第に、物では満足できない何かを感じはじめているのではないだろうか。それは、物の豊かさから、心の豊かさという言葉になって現れてきているが、その心の豊かさとは一体どのようなことなのかということに関しては、娯楽であったり、趣味であったり、語らいであったりと曖昧のまま言葉だけが一人歩きをしている感もする。ただ、この心の豊かさと銘打ったこれらの楽しみも、そのことをしている時には楽しいものであっても、それが一度終わってしまったりすると、どこかしら寂寥感が伴ってくるものだ。刹那的な快楽や喜びではなく、恒久的な快楽や喜びはないのだろうか。

私達の喜びは、大地に触れ、糧を直接体で獲得するという生命と直接触れ合う喜びから、仮想的な喜びの中に入ってきてしまってはいないだろうか。ほとんどの喜びが、情報に代表されるように、与えられたものの中での喜びであり、自らが思索し、創造し、行動することの中から生み出す能動的な喜びからはかけ離れてきている。それらの喜びは、ディズニーランド的な喜びとも言える。与えられたものの中に喜びを感じ、その喜びに慣れてくると、もっと刺激的なものを求めていく。人類が行ってきた営みは、この飽くなき快楽、飽くなき欲望の追究であったようにも思える。

はたして、現代人は、考古の人達よりも幸せになったと言えるのだろうか。今を生きる私達は、考古の人ほど日々の糧に対して、不安を抱いてはいないかもしれないが、人間として最も基本的に持っていなければならない本能との係わりを、知らず知らずに切り捨ててきてしまったように思える。何も情報化だけがバーチャルではなく、日常生活そのものが、生きるという意味でバーチャル化してはいないだろうか。一昔前までは、自分の体で直接自然を感じ取り、その直感から身を処していたものが、今では、その感じ取る力を内に追いやって、全て情報という知識によって判断するようになってきている。結婚年齢の高齢化にしても、少子化の問題にしても、人間が動物的な本能から離れ、それらを知識レベルで判断するようになった現れではないだろうか。そして、最も肝心なことであるが、生きるということに関しても、生きていることが当たり前として、生と死との係わりが、益々バーチャル化してきている時代と言えるのではないだろうか。

ストレスを抱いた子供達が増えているという。子供達の心は、本能に限りなく近い状態で成長しようとしているのであろうが、その本能的目覚め、本能的成長に、人間の作った社会が無意識のうちに壁となって働いていて、それが、子供達の心にストレスとなって現れているのではないだろうか。それは、春になって芽を出そうとしている球根の上に大きな石を置いている感覚とも比喩できよう。空虚化している教育、コミュニケーションの欠如、情報だけの世界、遊びの欠如といったものが、知らず知らずのうちに、自然が育くもうとしている人間の心を歪めて来ているのであろう。

確かに、現在の日本は、様々なハイテク機器によって利便性を獲得し、経済的にも豊かな社会を築き上げてきてはいるけれども、私達の心は、そういったものでは満たすことのできないなにかを感じている。そして、その物では満たされることのないものを満たそうと、都会を離れて農業の生活にはいることを夢見たり、アフリカや東南アジアのまだ自然が豊かに残されている世界での生活を試みる人が増えてきている。それらの生活を夢見、現実に行動するその姿は、私達の心が、ハイテク機器や物の豊かさによっては掴むことのできない何かを希求していることの現れであることは確かであろう。そして、その希求するものが山頂を目指す営みであるとたとえるならば、私達の文明競争の中での営みは、山の麓にある周回道路を一生懸命に走り回っている姿にも表現できよう。人が走るから自分も走る、人が早く走るから、それ以上に早く走る。でも、どんなに早く走っても、その走りは、山頂を目指した走りにはなってはいないのだ。現在の経済競争の中での人々の生き方を見るにつけ、人類のこれまでの営みが、山頂を目指しての歩みであったはずのものが、いつしか周回道路をより早く走る営みになってしまったと思わざるを得ない。

アフリカの未開の地に今なお原始的生活を続けている人々も、物質的に豊かになった世界に生活している人々も、人間そのものとしての進化には差はないのであろう。彼等の幸せ感も、物質的に満たされた人々の幸せ感も共に同じようなものではないだろうか。ただ、違うことは、物質的に豊かである人々の方が、周回道路をより早く走っているということだけではないだろうか。そして、その早く走っている人々には、人工的に作られた快楽が豊かな環境として与えられているということだ。そして、現在社会では、人々に飽くことのない快楽を提供しようと激しく動き回る人々と、その快楽を益々激しく追い求めようとする人々との競争が繰り広げられているともいえる。

それでは、一体山頂はあるのだろうか。それとも、山頂があるというのは単なる思いこみなのであろうか。山頂があるというのは、人類が何かを目指して進化しようとしていることであり、山頂があるというのは単なる蜃気楼であるとする考えは、人類の目指すものなどなく、人類は自然のままに生まれ、やがて人類は自然に滅亡していくとする考え方だ。ただ、人類が何も目指していないのだとしたら、私達は一体なぜ生まれてきたのだろうか。生きることの意味を考えるその心は、人類に何かを目指させようとする生命の力のように思えるのだが。日常生活の刹那的な快楽という雑草に混じって、その刹那的快楽の奥側で、何かを求めているもう一人の自分がいることを感じてはいないだろうか。

私達は、これまで、外を見る目によってものを捉え、科学技術を生み出してきた。その技術によって、様々な利便性が与えられ、さらに、様々な快楽が生まれてきた。そのために、私達は、益々外を見る目を成長させ、自分自身の心の世界を見る内を見る目を育ててくることを怠ってきてしまったのだ。今、フリーターと呼ばれる若者が増えている。また、働かずに、なにも目的もなく、ただ如何に生きたらいいかを模索している若者も増えてきている。これらは、これまでの早く走ることを良しとしてきた社会的価値観からするならば、退化しているとも思えるのであろうが、それは、周回道路を早く走ることの空しさに気付き始めていると見ることはできないだろうか。何もすることがないのではなく、何を本気でやっていったらいいのかが分かっていないのだ。そのことを考えるために今立ち止まっているのだ。そして、そのことは、この宇宙が、人類をある方向に導こうとしている力がそこには働いているのだと言えないだろうか。

それでは、宇宙が人類を向かわせようとしている方向とは一体どの方向なのだろうか。そして、それは一体何を求めることなのだろうか。生命の人類への進化は、無意識という大きな世界の中から、意識の世界を誕生させたことにあろう。ところが、人は、その無意識の世界に気付くことなく、意識できる世界が全てであるという錯覚に陥ってきた。そして、その意識する世界から科学が生まれ、様々な科学技術が生まれてきた。その技術は、人間に、目にはっきりと見える恩恵をもたらしてきたために、意識こそ絶対であるという錯覚に人間を陥れてきたのだ。しかし、ここに来て、人間は、その錯覚に気付き始めようとしているのではないだろか。置き忘れてきてしまった無意識の世界。その無意識の世界を意識化させることこそ内を見る目を持つことであり、人類の進化に導く営みなのではないだろうか。物質的豊かさの中にあって、心の中にはもやもやとした満たされなさが渦巻いているのは、実は、この無意識の世界に意識の明かりを灯していないところから生まれてきているのだ。これまでの、人類の進歩が、外を見る目を磨いてきた営みであるならば、これからは、内を見る目を磨いていく時代ではないだろうか。人類の目指すもの、それは、一人一人が自分自身の無意識を意識化させることの中から得られてくる何かであるように思うのだが。

以 上

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