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第72回 「言葉」

開催日時
平成12年3月10日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、尾崎、山崎、桐、水野、下山、松本、泉谷、田中(誠)、山内、望月

討議内容

今回新たに、山内惠子さんが参加してくれました。山内さんは、日教組の中央執行委員で、女性部長をされています。ご自宅は旭川にありますが、もう4年間東京に単身で生活しているとのこと。教育界での長年の経験を生かし、この会に新しい息吹を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回は前回と同様、言葉に関して議論した。言葉には、響きとして表現される言葉と、文字として表現された言葉とがある。響きとして表現される言葉が始めにあり、それが文字の発明により、文字言葉として残されるようになったということは、疑うべくもないことであるが、この両者には、その持つ言葉の働きにおいて、いくつかの異なりが見られる。確かに、文字の発明は、言葉が、外の世界に残されることを可能とさせた。ある人の語ったことを文字として残しておくことができるし、直接面と向かっていなくても、どこからでも、どこへでも意味を伝えることができる。しかし、その利便性とは反対に、文字の発明は、言葉の持つ大きな力を失ってしまったようだ。

言葉が、響きとしての表現で完結されていたときには、その言葉によるコミュニケーションは、直接場を共有している者同志の間でなされていた。語る者と、それを聞く者との間には、言葉にはならない情報が共有されていた。その情報は、場から受ける様々な情報でもあるし、共にその場に居合わせるまでに共有しているプロセスによって生まれてくる情報であった。言葉は、そのような様々な情報を内に秘めて、その秘められた情報を誘引する一つの代名詞的なものとして用いられているのである。そこでは、言葉が意味として働くよりも、言葉は共有する体感を誘引する力を持っている。言葉は、分別知を働かせる為のものではなく、無分別な知を目ざませる働きがあった。場を共有していることによって、共に体験的世界を共有できていたのである。また、言葉が響きとしての言葉に根ざしているときには、言葉の持つ響き、イントネーション、強弱など、単に文字的に表現された意味だけではなく、そこには、心の奥深くにある生命活動と切り離すことのできない情報が込められている。そして、その響きやイントネーションは、直接聞く者の心に飛び込み、聞く者の心に、語る者の心模様を生み出す力がある。そこでは、言葉の響きによる、直接的な心の共鳴が生まれている。

これに対して、言葉が文字言葉になることによって、言葉が一人歩きすることができるようになった。それは、先程述べたように、どこへでも自由に意味が伝えられ、記憶として長く残されるという利便性とは対照的に、場を共有していないために、体感を共有するという生きた情報が失われてしまうことになった。まだ、文字言葉であっても、社会が共通な場を自然に秘めていた時代においては、場の情報を内に込めることはできたであろう。しかし、現在のように、場が多様化し、文字言葉だけが一人歩きをしている時代にあっては、その文字言葉の伝える情報が、生命活動から遠ざかり、益々表面的な、重みのないものとして、動き回ることになっているのではないだろうか。確かに、意味的情報を求めるには文字言葉は便利ではあるけれども、文字言葉が主体的な世の中になってしまうと、最も基本的な、生命活動と係わる場情報が失われてしまう。そのことは、一人ひとりの生命活動を、コミュニケーションということで活性化させることができず、殺伐とした世界を作り上げてしまう危険性を秘めているのである。言葉の持つ重要性は、その言葉のもつ意味ではなく、言葉が内に抱く場の情報である。ところが、いつしか、言葉のもつ意味だけが一人歩きをしてしまう世の中に次第になってきてしまった。そのことは、言葉の内に秘められた、生命と直接係わる場情報が切り落とされていくということであり、言葉の意味世界の氾濫は、場の崩壊であり、生命破壊となって現れて来ているのである。

言葉が誕生した背景には、言葉の響きが、ある一つのイメージと連動していること、すなわち、あるイメージが心の中に生まれ、そのイメージを言葉の響きとして表現できる力が誕生したからであろう。響きから一つのイメージを生み出すことのできる力が誕生したからこそ、言葉は、心を共有するコミュニケーション手段として発達してきたのである。そのイメージを声として表現したのが言葉であり、視覚的イメージとして表現したものが絵画であり、彫刻であった。人類の歴史を見ると、今から、3万年前頃から、豊かな絵画や彫刻が生まれたことが考古学的発掘から明らかにされていて、これを人類の文化的爆発と表現しているが、この文化的爆発を生みだしたその根底には、人類が五感を通して感じとる様々な刺激から、一つのイメージを生み出す統合する力が生まれたからであると考えられる。

このイメージと係わって、人間の中には、視覚的刺激であれ、聴覚的刺激であれ、触覚的刺激であれ、どのような刺激に対しても、その行き着く先は、同じイメージ世界の中に変換してしまうような力が与えられているのではないだろうか。だから、言葉という聴覚刺激が、文字という視覚刺激に変換されているし、逆に、一つのイメージが、言葉として表現されたり、視覚的情報として表現されたりしているのであろう。そして、イメージを意識化できるから、そのイメージは言葉として表現されるのであるし、従って、言葉になるということは、それの指し示すものが意識の世界に浮かび上がってくるということ、すなわち、存在するということに結び付いてくるのではないだろうか。

虹の色が七色なのか五色なのかは、言葉が切りとる色によって異なってくる。七つの色を表現した言葉で虹を切りとるならば、虹は七色になるし、五つの言葉で切りとるならば、虹は五色になってくる。言葉があるということは、それが存在していることを認めることであり、言葉の誕生は、まさに実存の世界を生みだしたということではないだろうか。特に、この言葉が、五感と係わる刺激物に対してではなく、心の世界の現象に関して用いられるとき、その実存性は、言葉によってのみ捉えることができるとは言えないだろうか。自我、自己、神、精神等など、心の世界に存在するものは、言葉によってのみその存在が浮かび上がってくるのである。そして、そのことが、人類が生みだした二つの大きなもの、すなわち、道具と言葉の持つ機能の大きな違いではないだろうか。すなわち、道具は五感が捉えることのできる世界の中で生み出されてきている。その道具によって、私達は、様々な利便性を享受してきた。そして、顕微鏡、望遠鏡、宇宙船などを作り出し、物質の根源、宇宙の根源に迫ろうとしている。しかし、道具はあくまでも外の世界と係わるものであり、道具によって私達の心の世界を探索することはできない。その心の世界を探索できるものこそ、言葉なのではないだろうか。

言葉が、物と係わる世界の中で意味伝達手段として使われている段階においては、言葉の持つ力のほんの一部しか活用していないのである。道具が、外なる世界に展開されている生命活動を探求するものとして発達してきたように、言葉は、内なる世界に展開されている生命活動を探求するものとして用いられて始めて、その本来的使命を獲得するのではないのだろうか。言葉によってしか捉えることのできない内面世界、私達人間は、その内面世界の中に幸福を求めているのであるから、真の幸福は、言葉による内面世界の探求、すなわち内省する中から獲得されるものではないだろう。ソクラテスの語った「汝自身を知れ」という言葉の意味は、まさに言葉による自分自身の内面世界の探求に他ならないであろう。インターネットや携帯電話がどのように発達したとしても、言葉が外の世界と係わっている限り、人類の真の幸福は求められはしまい。私達は、道具による外の世界の華々しさに目をくらまされて、言葉までも、外の世界とのみ激しく係わる社会を作り上げているのではないだろうか。言葉によって、自分自身の内なる世界を見つめ始めたとき、言葉としての使命が始めて発揮されるのではないだろうか。

言葉を奪われたことのない日本人にとってみたら、言葉と民族との係わり、言葉と生命との係わりといったものが、空気のように、当たり前なこととして感じられているのであろう。今回の二度にわたる言葉の議論においても、言葉と民族、言葉と宗教、といった事柄に関しては、ほとんど触れられることがなかった。これらに関しては、また機会があったら議論してみたい。

次回の開催を5月12日(金)とした。

以 上

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