- 2005-04-09 (土) 22:35
- 2000年レポート
- 開催日時
- 平成12年9月22日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、塚田、土岐川、山崎、桐、水野、下山、松本、大滝、石田、望月
討議内容
今回新たに、石田さんが参加してくれました。石田さんは、女性社長として暗号に関する会社を経営されています。趣味としては、絵を描くことやピアノを弾くことだそうです。英語、フランス語が得意ということですので、インターナショナルな観点から、この会に新たな風を吹きこんでくれることを期待しています。
今回は自由をテーマに議論した。自由とは、何らかの形で束縛されているものから解放されることであるが、その束縛の一つに人間が社会的な動物であることからを束縛している。特に、新たなことを試みようとする者にとっては、この常識は大きな力となって束縛してくる。その常識から外れると、変わり者であるとか、かってであるとかいった烙印が押されることになる。人間が他の動物と違うところの一つは、この見えない力が自由を奪っていることが上げられる。
社会的に人間を束縛しているものとして、常識以外に、成文化されたルールがある。校則、社則、法律、交通ルールといったものは、人間が社会的営みをしていくためには必要なものではあるけれども、同時に一人一人の自由を拘束するものでもある。いずれにしても、人間が、近代化してくるに従って、そこには新たな社会環境が生まれ、その社会環境の中で一人一人が社会生活を行っていくためには、成文化されたルールというものが生まれてくる。そして、そのことによって、人は知らず知らずの内に自由度を失ってきているように思える。
また、人間が動物に比較して自由度を失っているのは、人間が概念を生み出す力を持ったことによろう。人間を特徴づける考えるという営みが、自由度を失わさせているのである。死の不安、経済不安、病気への不安、結婚生活への不安、子供を持つことへの不安等々、考えることから生まれてくるこれらの不安は、それだけで心の自由を奪っていることになる。そして、これらの不安からの解放手段の一つとして、人間には自らの命を絶つという自殺する力が与えられたとも言えよう。
多量な情報が創出され、新たな科学情報が一般世論に広まってくるに従って、それだけ情報による不安量は増大していくことになる。ヒトゲノムの解読などによっ生まれてくる情報は、生まれる子の遺伝病に対する不安を助長させるであろうし、子供を持つことへの不安、結婚することへの不安というものを助長させることの危惧を感じる。いずれにしても、人間の考えるという営みは、どうやら人間に精神的不自由さをもたらしているように思える。人間の考えるという営みは、元々一つのものを、個々のものに分解し、分析することをする。言葉の発達にしても、元々は一つの声の響きが、一つの概念を表現し、その概念は、多様なイメージを創出させていたのであろうが、次第に言葉は単音から単語になり、細分化され、一つの言葉が表現するものが、特定されたものを表現するようになってきた。科学にしても、元々一体となって全体で一つとなっているものを細分化し、分析してきた。このような思考によるデジタル化の動きは、無意識の内に、デジタル化したことによって切り落とされてしまうものを生み出すことになる。この切り落とされたものを人は不自由として感じるのではないだろうか。すなわち、分析したことによって不自由な世界を作り出しているということである。
石田さんによると、英語の自由という言葉と、フランス語の自由という言葉が意味する概念空間は、日本語の自由という言葉が意味する概念空間とは異なっているらしい。自由という言葉が日本には明治以前にはなかったとのことであるが、それだけ日本が、西欧の論理的な世界とは違って、まだアナログ的な世界を続けていたということなのかもしれない。西欧人の表現する自由は、人間の思考が生みだした社会規範や宗教、人種差別的なものからの解放といった、はっきりとした対象物があるのに対して、日本の場合には、これらのものが曖昧なまま日本人の無意識の世界にあったために、それらが概念化されず、自由という言葉が存在しなかったのではないだろうか。すなわち、日本においては、デジタル化が西欧より遅れていたということである。そのことは、日本人の会話がアナログ部分を極めて豊かに持っている(コンテクスト度が高い)のに対して、西欧人の会話には、アナログ部分が少なく(コンテクスト度が低い)、それだけ論理的な会話になっていることにも現れている。
私達が受ける不自由さには、上で見てきたように、人間の社会的営みと係わる主として外的世界から来る束縛によるもの以外に、自身の内面から生まれてくるものがある。生きることの意味を求めて考え悩むことは、心の内から生まれてくる束縛である。その束縛は、人間の持つ考えるという能力と表裏一体なものとして生まれてくる。すなわち、人間は、考えるという能力を持ったことで、先に述べたように、概念空間を生みだしたのであるが、その概念空間の中に、今度は生命体としての進化として、生きることの意味を問う束縛が生まれてきているのである。概念化によって生み出された様々な不安は、人間としての本質的な問である「生きるとは何か」を心の中から生み出すことになる。そして、その「生きるとは何か」という問に対する解答は、その問に対する思索を続ける営みの中で生まれてくる新たな知恵によってもたらされる。すなわち、人間は、概念化によって生み出された不安、悩みに、概念空間の中で対峙することによって、本当の自由を獲得することができるのである。
以上のように、人間が生みだした不自由さは、人間の持つ思索する能力が、まだ未発達状態にあるが故であり、自由を求める営みは、人間の精神的進化への希求であり、それは新たな知恵を発達させることなのではないだろうか。すなわち、自由とは、人間の得た理性、それは概念を生み出す力であるが、その理性からの解放であり、理性の飛躍を望む生命活動の指向性ではないだろうか。理性の飛躍とは、理性が自然の一員になることであり、それは自我を凌駕して自己になることである。若者達に見られるフリーター現象も、いやなものはやりたくないという表層的な自由さからきているものだけではなく、生きることの意味を問い自己実現を目指した精神的進化への希求の現れではないだろうか。
次回の開催を11月22日(水)とした。
以 上