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第79回 「生きることの意味」

開催日時
平成13年5月28日(月) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、塚田、西山、山崎、桐、水野、下山、松本、田中、肥野(慎)、 肥野、佐藤、望月

討議内容

今回は、肥野さんが新たに参加してくださいました。肥野さんは、先にこの会に参加しています肥野(慎)さんのお母様で、現在ベターホームの協会に入っていて、料理を教えているとのことです。主婦の視点から、新たな意見を発信していただくことを期待しています。

今回は生きることの意味について議論した。久しぶりに参加された西山さんは、世界を旅する趣味をもっていますが、最近アンコールワットを訪れて、人生観が大きく変わったとのこと。今まで、一生懸命生きてきて、それなりに満足していた人生ではあったけれど、アンコールワットを訪れて、今までの人生ではなく、何か、他にもっと生きる意味のある人生があるのではないかという思いを強くしたという。特に、世界遺産となっている多くのものが、その時代、その時代を生きた権力者との係わりで建築されたことを思うと、生きることと、何かを残すこととの間には、何か重要な意味があるのではないかとも思うようになったとのこと。また、山崎さんは、以前チベットを訪れたときに、それまでの人生観とはまったく異なった、まったく新たな世界が広がってきて、それからの生き方が大きく変わったという。いずれにしても、私たちが当たり前のように日々を生きていることの中では、感じることのできない世界が、私たちの心の奥には秘められていて、時として、その世界を何かの出会いによって垣間見せてくれるようだ。

田中さんは、現在フリーのデザイナーとして活躍されているが、今の関心事は、生きることの意味を求めることであるらしい。そんな田中さんにとっては、人間が生きるこの世界には、喜びなどなく、苦悩の世界があるだけではないかという思いが強まってきているという。はたして、この世は苦悩に満ちた世界であり、生きることの意味などない世界なのであろうか。

水野さんは、最近あるサークルに属するようになったが、そのサークルの先生から、自分の死の記事を書いてみるようにという課題が出された。そのため、自分が死んだことの記事を自分で作ってみたのだが、なんとも不愉快な心が広がり、そのあと何日間か連続して悪夢の世界を見続けたのこと。そんな中で、理想的な死後の世界を自分なりに想像して描き出してみたところ、あの不愉快な心はどこかに消え去ってしまい、悪夢からも開放されたという。

われわれが生きる意味を問う陰には、死後の世界に対する不安が横たわっているように思われる。そして、その死後の世界への不安は、死に対する不安というよりも、水野さんが死の事についてだけ記事として書いたときの不愉快な気持ちにも表れているように、死に対して何も知らないということからきているようだ。私たちを不安に陥れているその源には、無知がある。水野さんが描き出した自身の死に対する記事は、水野さんを不愉快な世界に導いたのであるが、それは、未知なる死を現実のものとして浮き上がらせたことによるのではないだろうか。未知なるものを意識した途端に、不安な世界が大きく広がってきたのである。それまでは、いつかは死がくることを概念的には分かっていても、それを現実のものとしては実感していなかったのである。その非現実的な死が、自身の死についての記事を書くという営みによって現実な世界に引きずり出されたのである。死が現実になった途端、死に対する未知な世界が不安となって心を支配してきたのではないだろうか。

生きることに関しても、死に対する思いとまったく同じことが言えるのではないだろうか。私たちは、普段当たり前のように生きている。生きることの意味など考えることもなく、ただ日々を思うに任せて生きている。そして、そのことが生きることであると思っている。しかし、それは、死を概念で捉えているのと同じように、概念で捉えた生なのではないだろうか。水野さんが自身の死の記事を書く以前の概念によって捉えていた死の世界と同じように、私たちは、当たり前に生きていることの中で、概念によって捉えたバーチャルな生の世界の中で生きているのではないだろうか。ところが、その概念で捉えていた死の世界が、死の記事を書くという、まさに死に対峙することによって現実のものとなって迫ってきたのと同じように、生きることの意味を真剣に考え出した田中さんには、現実のものとして現れてきたのである。そして、その現実な生は、まだ生について具体的に把握できていない田中さんにとっては、水野さんにとっての死に対する不安と同じように、生に対する無意味さ、苦悩さとなって感じられてきているのではないだろうか。生きることが、バーチャルなものから、リアルなものへと移行し始めた途端、生きることに対する無知さが、生きることへの不安、苦悩となって広がってきているのである。生きることに対する無知さ、それは、生きることに意味が求められていない状態でもある。

それでは、生きることの意味はあるのであろうか。そして、それは求められるものなのだろうか。桐さんは、田中さんの生に対する悩みに対して、観念的に生活しているからであると観念の肥大化が生きることへの悩みを生み出しているのだと警鐘を鳴らし、自然体で生きよと忠告を与えた。しかし、はたしてそうなのだろうか。生きることの意味を求めて悩むことが観念の肥大化がもたらした、人間退化の道なのであろうか。人間にとって自然とは一体いかなるものなのであろうか。自然に生きるとは、生きることを考えないことなのであろうか。人間が生きることの意味を考えるには、それなりの生命の進化としての力が秘められているからなのではないだろうか。その力が秘められているから、チンパンジーの中から人類は誕生してきたのであろうし、理性という概念世界と係わるものを手に入れたのではないだろうか。生きることの意味を真剣に問うことこそ、人間にとっては自然の営みであり、水野さんが描き出した理想的な死後の世界が、水野さんに平安な心をもたらしたのと同じように、まったく新たな生きる力をもたらすように思えるのだが。すなわち、人間にとって自然とは、死や生のことを生まれたままの状態で放置しておくのではなく、そこに理性の力によって意識の明かりをともしていくことなのではないだろうか。

それでは、生きることの意味はあるのであろうか。生きることの何か目的はあるのであろうか。古代の権力者が、自身の生命の永遠性を信じ、それを形として残そうとしたのが、ピラミッドであり、古墳であり、大寺院であるとするならば、われわれ人間の心の中には、そのような思いを生み出す永遠なものが流れているのではないだろうか。その永遠のものが流れているからこそ、われわれはその永遠のものを求め、それを具現化したい衝動にかられるのではないだろうか。人間に生きる意味を問う無意識からの呼びかけは、生命の永遠性を無意識のままにしておくのではなく、その悠久性を体で感じることのできる知恵を育むことを自然が要求していることから生まれてきていると思うのだが。

生物が、その命を維持するために食物を求めるのとまったく同じように、人間に与えられた理性は、生命の中に宿る永遠性を捉えるためのものであり、その永遠性を捉えさせようとして、自然は、人間をして、生きることの意味を問わせたり、自己実現の欲求を起こさせたりしているのではないだろうか。そういう意味からすると、生きることの意味を問うことは、一人一人の中に生き続けている悠久な生命を自得するための自然の欲求ということであり、生きることの意味は、悠久な生命と邂逅することであるということではないだろうか。

次回の開催日を7月9日(月)とした。

以 上

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