- 2005-04-09 (土) 22:48
- 2001年レポート
- 開催日時
- 平成13年11月26日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、塚田、土岐川、山崎、桐、下山、松本、望月
会議内容
今回は幸せについて議論した。幸せとは一体なんだろうか。私たちは、日常生活の中で、ちょっとした出来事、ちょっとした楽しみの中に幸せを感じることがある。遠足、修学旅行を楽しみに待つ子供たちの心は、幸せ感で満ちている。大人たちにしても、週末に予定している、ゴルフ、テニス、あるいは釣りといったレジャーは、実際にそのことをやっている時はもちろんのこと、その日を待つ間の心の高揚も、幸せ感を運んでくる。確かにこれらの幸福感は、幸せそのものであろう。
しかし、その幸せは、時と共に消えていくものでもあるし、その幸せ感は、旅行、ゴルフ、テニス、釣りといったある組み立てられた目的によって生まれてくるものである。それらの幸福感の陰で、組み立てられた目的によって生まれてくる幸福ではなく、そして、時と共に消え失せていく幸福ではなく、もっと恒久性の高い幸福感を無意識のうちに求めてはいないだろうか。それが、どこから運ばれてくるのかは分からないけれども、刹那刹那の幸福感を何度も何度も繰り返しながら、その幸福感とは対照に、刹那的な幸福が終わることの空しさ、寂しさを同時に味わっている。そして、その空しさ、寂しさの奥に、本当の幸福、もっと持続性のある幸福があるのではないかという無意識の働きがうごめくことがある。
確かに、ある目的に支えられた幸福感は、たとえそれが刹那的なものであったとしても、幸せ感をかもしだす。その幸福感を求めるだけで十分であるということもいえるかもしれない。しかし、刹那的な幸福感の後にやってくる空しさ、寂しさを味わうたびに、もっと恒久性の高い幸福があるにちがいない、あったらいいのにという思いは誰もが抱く共通した感覚なのではないだろうか。
生命活動が進化を希求しているのだとするならば、この刹那的快楽とその後起こる空しさとの関係は、生命が、幸福の存在を見せながら、その幸福が、通常の営みではすぐに崩れ去ってしまうことを悟らしめ、その悟りの中から、恒久性のある幸福感を求めさせようとする働きのようにも思える。それは、日常当たり前に生きていて、生きることのありがたさ、生きることの意味などほとんど考えることのない人が、何らかの機会に死と直面することによって、生きていることの実感と、生きていることの有難さとを思い知ることに似ているように思える。すなわち、死の存在が人間をして悠久な生命を求めさせようとする力になっているのと同じように、刹那的な快楽とそれに伴う空しさとは、悠久な幸福を求めさせようとする生命の根源的な力ではないだろうか。
幸福は、そんなに遠くにあるものではなく、何らかの目的によって生まれてくるものでもなく、生と死とのかかわりのように、今生きていることことの中に恒久性の高い幸せが秘められているように思える。物が見えていること、物が聞こえていること、香りを楽しむことができること、味わうことができること、そういった日常生活の中で、当たり前なこととして存在しているものの中に、恒久性のある幸福感が秘められているのではなかろうか。
健康であること、家族の愛、友達との愛、食べたい時に食べるものがあること、痛みのないこと、呼吸ができていること、歩くことができること、話すことができること、そういった当たり前のことが当たり前でないと気付くところに、悠久性のある幸福が秘められているように思える。山登りをする人の中には、山頂を目指して登ることよりも、目的もなく歩き回ることの中に喜びをかみしめることがあるという。その喜びは、新鮮な空気との係わりであったり、肌を通り抜けるさわやかな風の感触であったり、草木のかもし出す新鮮な香りであったり、鳥の声の快い響きであったり、新緑の輝きであったり、普段当たり前としてその存在を強く感じることのない五感とのかかわりが当たり前でなくなるところから生まれてくるのではないだろうか。
人は、これらの当たり前のことを無意識のうちに行っているために、普段の忙しさにかまけて、その存在の有難さに気づくことがない。ただ、私たちは、その無意識の世界とのかかわりの中に幸福感を求めている。その無意識の世界とのかかわりは、非日常生活の中で見出されることが多い。私たちが、旅行やレジャーに求めているものは、その多くが非日常の世界である。その非日常の世界は、心を世俗的な価値観から解放し、悠久な生命とかかわる生物としての無意識の世界に人を導く。その無意識の世界に生きるとき、人は幸福感を味わう。本当の幸福がもしあるとするならば、それは、自身の中に秘められた、自身の無意識の世界に宿る悠久な生命に気付くことなのかもしれない。その悠久な生命への導きが、非日常生活とのかかわりになっているのではないだろうか。世俗世界では、1分待つだけで腹を立ててしまう人たちが、非日常空間としてのディズニーランドでは1時間待っても苛立ちをもたらさないのは、非日常生活の中では、時間という概念が失われてしまうからなのであろう。そして、この非日常性の中に、一人一人の無意識の世界が顔をのぞかせ、そこには時間のない悠久な世界が展開し、それとのかかわりを幸福と感じているのではないだろうか。
人は、何等かな具体的な形を伴うことの中に生きていることの証を見つけたがるものだ。ボランティア活動にしても、福祉活動にしても、それらを求める人と直接かかわり、その人たちのために行動することがボランティアであり、福祉活動であると思い込む。しかし、一人歩いていて道端にあった塵を広い、駅に落ちていた缶を拾い、トイレをきれいに使い、落ち葉を掃き清めることなど、身近なものの中にいくらでも活動する場はあるのに、そのことには気付かない。それと同じように、真の幸福は、自身の身近なものの中に、いくらでもあるのに、そのことに気付いていないのだ。その当たり前のもの、それは先に述べたように、健康であったり、家族の愛であったり、生きていることであったりするのだが、その中で、最も忘れ去られてしまっているのが、人間として生きること、すなわち創造的に生きることである。たとえそれが刹那的な幸福であったとしても、その根底には、創造性が常にある。子供たちの旅行を待つ心のときめきは、見知らぬ土地への好奇な気持ちであるし、友人同士でのコミュニケーションの場でもある。そこには、無意識のうちに創造性が働こうとしている。スポーツにしても、考えながら、向上心を持って取り組む中に幸福感がある。人間としての幸福感の根底には創造性との係わりがある。健康であること、愛に満ちていること、行動できることといった日常生活の中に当たり前に存在しているものに気付くのは、自身の秘められた創造性、それは知恵とも表現できようが、その知恵を活性化させて始めて得られるもののように思う。
次回の打ち合わせを平成14年1月28日(月)とした。
以 上