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第81回 「感性」

開催日時
平成13年9月17日(月) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、西山、山崎、下山、市川、吉野、望月

討議内容

今回は感性について議論した。最近富に感性の豊かさや、感性を磨くことについて新聞やテレビなどのメディアにおいて目にしたり聞いたりするが、その感性とは一体なんだろうか。感性と同じような言葉に感受性がある。感受性というと、その響きの中に、情緒的なものを感じさせる。テレビのドラマや映画などを見ていて、共感したり、感動したりすることは、どちらかというと感受性と係わっている。これに対して、感性には、五感を通して入ってくる様々な刺激に対して、統合的に判断する何かが秘められているように思える。

感性と感受性をたくみに区別した表現が、ラジカセとコンポのキャチフレーズに現れているという。ラジカセのキャッチフレーズとしては、「貴方の感受性にあったラジカセ」というのに対して、コンポの場合には、「貴方の感性で自由にコンポしてください」という表現が使われるという。ラジカセの場合には、すでに全てが提供者によって組み立てられていて、その組み合わせが、貴方の感受性をくすぐるということであろう。これに対して、コンポの場合には、アンプ、スピーカー、CDプレーヤー等など、聴く者の感性によって一番いいものに組み合わせることが可能である。これらの例から垣間見ることができる感性とは、五感に入る様々な刺激を統合する能力ということではないだろうか。そこには、単に刺激を刺激としてセンサー的に認知するだけではなく、それらの刺激を統合して、そこになんらかな人間的心を生み出す力が秘められているように思われる。

感性には、刺激を感じると同時に、そこには何等かな概念としてのイメージが直感的に創出される力が秘められているように思える。動物には感性がありやなしやという議論の中で、動物には、刺激を感じ判断する能力はあったとしても、ここで考えているような感性はないのではないかと思われる。というのは、上で述べたように、感性には、概念と係わる何かが秘められていると思われるからである。感性には、人間的創造力がどこかで係わっているように思える。動物が、五感から入る刺激を統合して獲物を狙ったり、身の安全を維持したりする力は、感性というよりも、動物的勘というか、判断力というか、そういった類のものであろう。これに対して、感性とは、やはり人間的な心と深く係わる力であると思われる。

漁師の人たちには、雲の動きや、湿度、風など、様々な刺激から天気を予想できる力が体験的に秘められているという。これらの力も、感性と深く係わっているのではないだろうか。感性とは、様々な刺激を統合して、そこから何らかの創造的イメージを創出する力ではないだろうか。それは、言葉と深く係わっているように思える。言葉のない世界に感性はあるだろうか。確かに、言葉が語れなかったとしても、動作や表情によって心模様を表現することはできる。しかし、それが、人間の持つ創造力によってもたらされた結果であるためには、言葉と係わる、あるいは、それと同じような心を表現するものと係わる創造性があって、初めて様々な刺激が統合されて、一つの新しい心模様を生み出すのではなかろうか。その典型的な例は俳句であろう。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、個々の感覚から入る刺激を一つのものとして統合し、その統合された心の世界を言葉の世界に表現する。一瞬のうちに感じ取る心の世界を、言葉によって表現するには、それなりのイメージ力が必要であり、そのイメージ力こそ、感性と呼ばれるものではなかろうか。五、七、五の十七文字の中に、豊かなイメージの世界を表現できればできるほど、そこには感性の豊かさが表現されているということになる。もちろん、その豊かなイメージを表現するためには、表現能力を磨く必要があることは確かであるが、その磨かれた技術をさらに高めるのが感性ではなかろうか。どんなに技術を学んでも、その技術を用いることのできる豊かなイメージの世界を描くことができなかったら、そこから表現されるものは、つまらない機械的なものになってしまうであろう。
このことは、画家や音楽家にもあてはまる。どんなに技術を学んでも、技術でしか表現できていなければ、そこには、聴く者、見る者の心を震撼させるなにものも生み出すことはできないであろう。絵も、音楽も、そこに表現されているものは、言葉と同じように、個々の単語としての無機的なものがあるだけだ。その無機的な単語を結び合わせ、有機的なものに変換する力こそ感性そのものではなかろうか。そこには、無機的な単語を結び合わせて有機的なものにするという創造力が秘められている。表現する者も、その表現されたものを見る者も、共に、言葉によるコミュニケーションの話し手と聞き手と同じように、その根底には、表現された無機的なものを、有機的に結びつけ、一つのイメージを創出する力が秘められているのである。そして、そのイメージを創出する力こそ、単に創造力という表現から、少し進んでというか、生命に近い創造力ということで、それを感性と感じているのではなかろうか。

感性とは、生命を感じる力に他ならない。だから、どうしても感性は体験と係わってくる。知識として学んだ中からは、豊かな創造性は生まれてはこない。だから、感性は、同じ体験を通して共有できるものでもある。もちろん、見かけ上は同じ体験をしていても、全く異なった心模様をもつことも日常茶飯のことではあるが、根底には、風土や、社会といった中での同じ体験を通して持つ共通したものが秘められている。原始時代、人類は、同じ場の中で共有した生活を行っていた。見るもの、聴くものの多くは、全員に共有された世界の中で起きていた。場が共有されていたから、それほど多くを語らなくても、共通のイメージを抱くことができた。そこには、生命そのものと直接的にコミュニケートする研ぎ澄まされた感性があった。だから、星の営み、天変地異の営みが、自身の体と連動して感じられ、そこに宇宙のリズム、法則などを直感的に感じることのできる感性があった。だから、彼らが生み出したものには、豊な生命と、自然さが十分に表現されていた。クロマニョン人たちが残した数多くの洞窟壁画に描かれた動物たちには、生き生きとした生命が同時に描かれている。現代のような科学の全く発達していなかった時代においても、ピラミッドを作り出し、宇宙と係わる易学や、宇宙論を生み出すことができた。ところが、その感性、それは、生命に直結していたのであるが、その感性が、近代化という名のもとに、理性によって圧迫を受け、元々あった豊かな感性が、理性によって曇らされてきてしまっている。感性の曇りに気付かない現代人は、その曇りを理性によってうめようとする。それは、元々、澄み渡った天空の世界を、古代人は、肉眼によって、はるかかなたの世界まで見ることができていたのに、人類の生み出した科学技術によって曇らされてしまった天空の世界を、現代人が、最先端科学の生み出した最高級の望遠鏡によって見ていることにも似ている。

このことは、私達の心の世界が、無意識の世界から離れてきていることにも等しい。我々人類は、あまりにも、理性を尊重しすぎたために、見える世界だけが存在する世界として、感じる世界を置き忘れてきてしまったのだ。無意識の世界には、この宇宙をすべて統合して一つのものとして感じることのできる能力が秘められているにちがいない。それをイメージで表現するならば、くもの巣のように、中心にいるくもが意識とするならば、その意識は、くもの巣の張られた空間のどこにどのようなものがかかっても、それを感じ取る力がある。それと同じように、人間には、見えない糸で、この宇宙全てと結ばれているのではないだろうか。そして、その結ばれている世界を感じ取る力、その力は、張られた糸の張力と係わっているのだが、その力こそ感性ではなかろうか。現代人の感性は、この見えない糸が緩んでしまい、遠くにあるものの変化を感じ取ることのできない弱いものになっているのであろう。
こんな風に考えてくると、感性とは、時空を超越した世界の中で起こる宇宙の変化を感じ取る力、それは、生命そのものを感じ取る力に他ならないということではないだろうか。

このほか十分に議論されなかった事柄として、勘と感性との係わり、チンパンジーには人と同じ感性があるのかないのか、赤ちゃんや子供の示す人見知りと感性との係わり、心霊現象と感性との係わりなどがある。これらの事柄については、またの機会に議論することとした。

次回の打ち合わせを11月26日(月)とした。

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