- 2005-04-09 (土) 22:55
- 2002年レポート
- 開催日時
- 平成14年9月13日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 村澤、広野、土岐川、山崎、桐、下山、中村、吉野、井桁、望月
討議内容
今回新たに井桁(いげた)さんが参加してくれました。井桁さんは、心理学が専門で、実践心理学研究所を開設されています。多くの方をカウンセリングされている一方で、鶏と一緒に生活しながら、鶏のメンタルヘルスに関しても研究されているとのこと。本研究会でしばしば議論される心理学の面からも新鮮な意見が聞けることを期待しています。
今回は「人類の目指すもの」と題して議論した。第二次世界大戦後55年以上の年月が流れ、世界に次第に平和な時がもたらされている一方で、アメリカの多発テロを契機に、テロに対する不安が世界的に高まってきていて、反テロ活動が一段とエスカレートしつつある。その一方では、それらの政治的な流れとは別に、経済的な面においても、長引く不況、株価の低迷、失業者の増大、企業間の熾烈な競争や不祥事など、様々な問題が浮上してきている。平和を願い、豊かな生活を目指してきた人類が、ここに来て、新たな不安と、求めようとしてなかなかつかむことのできない心の豊かさへの疑心暗鬼とに陥っているかに見える。我々人類は、一体なにを目指して歩んでいるのであろうか。
議論の中で出てきた人類の目指すもののキーワードとして、平和、人間らしさ、共生といった言葉があるが、それでは、平和とは一体何か、人間らしさとは一体何かとなると、具体的な言葉としてなかなか表現することができなくなってしまう。確かに、人類の望んでいるものは、平和であり、一人一人の幸福であることに間違いはなかろう。でも、その平和や幸福が一体どのようにしたら得られるのか、そのことの具体的答えを今我々は持ち合わせてはいないように思える。概念としては持ちえても、それを具体的な形として表現し、行動していくとなると、そこにはまるで蜃気楼のように、つかめそうでなかなかつかめきれない平和と幸福が横たわる。
フリーターとして定職に着かないまま何年も働き続ける若者達、企業の中にいても、本当にやりたいことをなかなか見つけることのできない大人達、そこには、求めようとして求めることのできない人類の目指す何かが横たわっているように思える。目指すべき何かがあると感じながらも、それが具体的に見えてこないために、今を否定しながらも人生全てを否定することはできないのではないだろうか。確かに、人間も植物や他の動物達と同じように、この世の中にぽつんと産み落とされ、自然のままに生き、そして死んでいくのが自然の流れなのかもしれないが、でもそれだけであろうか。その自然と思える営みを心の奥のほうで否定する何かがないだろうか。人間だけなのか、何かしら、そういった諦念で結論付けることの出来ない何かが心の奥の奥に横たわっているように思える。
テロに対する反撃にしても、そこには大義名分が必要となる。その大義とは一体何なのか。それは、人類の平和なのか。平和は、他者を力づくで破壊することの中から生まれてくるものであろうか。人類の歴史を見る限り、これまで幾たびも形を変えながらも人類同士が戦ってきた。日本だけを見ても、縄文の時代から、弥生時代、鎌倉時代から戦国時代、そして、江戸時代から昭和の時代まで、様々な戦いの渦の中で人類は生きてきた。そして、現代にあっても、その戦いは、今度は武器を持って相手を倒すという戦いではなく、企業戦士と表現されるように、企業と企業との経済的な戦いとなってきている。
テロ撲滅の問題にしても、今の流れを考えると、たとえ一時的にテロが倒されたとしても、倒されたテロ側から見れば、自分達を倒してくる相手をテロの首謀者としてみてくるであろう。この流れの中にあっては、人類が絶滅しない限り、人類の中からテロは永久になくならないことになってしまう。短期的、微視的に見れば、そこには大義名分が物語る正義がある。しかし、たとえその正義が、概念的には人類の目指す何かを示していたとしても、現代人が行おうとしている取り組みから直接得られるものではなさそうだ。その正義の心の底にある何かは、たぶん人類が共通に目指そうとしている何かではあろうが、その何かは、これまでの精神構造からは直接得られるものではなさそうだ。というのは、これまでの精神構造を基盤とした平和には、一人の絶対者、一人の勝組しか存在しないように思えるからだ。力づくで勝ち得た平和には、底に悪が潜む。そして、その悪は、擬似的平和の中でゆっくりとまた新たな姿で成長する。人類のこれまでの歴史はそのことを物語っているのではないだろうか。確かに人類は、何かあるものを求めている。それが先に述べた平和であり、幸福であろう。しかし、その平和も幸福も、物の豊かさによって心の豊かさが確立できないのと同じように、形体で作られた平和も幸福も、結局は人類の求めようとしている真の平和でも幸福でもないのではないだろうか。あるいは、物の豊かさに真の心の豊かさがないことが物の豊かさによって気付かされてきたのと同じように、形体的な平和と幸福との確立が、真の平和と幸福が、そのような形体で作られたものの中にはないことを気付かせるための人類の歩みとも考えられる。
とすると、人類は一体なにを目指しているのであろうか。子供達の脱力感。夢や希望の欠如。その底には、魅力的な大人、生き生きとした大人がいなくなってきていることにあると井桁さんは指摘する。確かに、企業の不祥事、それに対処する経営トップの人たちの姿を見るにつけ、今まで尊敬され、憧れとの的として目標にされていた経営者像が、一挙に覆され、目標の持てない社会を作り上げてきている一因でもある。企業が成長しているとき、経営者の心の中には、自身の、そして企業として世のため人のためになるものを世に送り出そうという目標があった。しかし、その目標もいつしか、企業の利益のみを追求する目標へと変化し、企業で働く大人たちに、人間として生き生きとしたものが感じられなくなってきている。その姿を若者達は感じ取っているのかもしれない。尊敬できる大人達が少なくなってきているということは、羅針盤を失った船のように、大人も若者も、盲目的にただ一日一日を生きていくカオス的な社会が生まれてきているということでもある。
人類は、このカオス的社会をそのままにしておこうとはしないであろう。それは、その社会が生きにくい社会であるからだ。その生きにくい社会を何とかしようとする心が一人一人の内から生まれてくるであろう。その生きにくさから脱出して、生きやすい社会を作っていくこと、そこに人類の目指す何かがあるように思える。それは、外の世界にあるのではなく、一人一人の心の世界で形作られるものではなかろうか。そして、今を生きる私達一人一人の心の中には、新たな世界を構築するための萌芽が秘められているのではないだろうか。
人類が目指す社会がどのような社会になるのかは分からない。ただ言えることは、人類の目指すものが、物やシステムで形作られた見える世界にあるのではなく、一人一人の心の中に、まだ見ぬ新たな精神世界を作ることのように思える。その精神世界こそ、一人一人をして人間的に成長させようとする暗黙の力となっていて、今を生きる人間の中に人間らしさという一言で表現されるような心の世界を希求させているにちがいない。一人一人の中に新たな精神世界が作られるとき、人類という種は、現代人が無意識に求めようとしている新たな世界を実現する基盤を作り上げることが出来るのではないだろうか。その基盤が出来るとき、我々が、大義名分として意識的に形作ろうとしている理想の世界が、極めて自然に出来上がっているのではないだろうか。
今回の参加者の中には、混沌とした社会、物あまりの社会の中で、人は何を求め、どのような社会を作ろうとしているのか、その具体的な答えが見つかることを期待して出席された方があった。しかし、人類が目指そうとしているのは、そのような具体的に目に見える世界ではなく、一人一人の心の世界での進化ではないだろうか。その心の進化は、まるで目の前にぶら下げられた人参を求めて走り回る馬のように、漠としながらも何か求めるものがあるとして、成長しようとするその人間の無意識の営みの彼方にあるように思えるのだが。
次回の打ち合わせを平成14年11月1日(金)とした。
以 上