- 2005-04-08 (金) 0:51
- 1991年レポート
- 開催日時
- 平成3年5月31日(金)〜6月1日(土)
- 開催場所
- 円満院門跡
- 参加者
- 古館、多田、村澤、佐藤、望月
討議内容
五月雨にけむる三井寺に、今回は五名のメンバーが集まり、2050年からみた平成時代と題して討論を行った。これから約60年後、日本はどの様に変化し、人々の価値観はどの様に変化して行くのか、そして、生活の中において何が残り何が失われているのかという点を念頭において考えてみた。
先ず、家族の関係について意見が交わされた。家族に係わる問題としては、夫婦の問題、子供の問題がある。夫婦の問題の一つとして、離婚率がアップしてきているという実態がある。西欧においては、離婚することにそれほどの罪悪感を感じていないようであるが、日本においては、これまで道徳的に、離婚に対する罪悪感があった。しかし、国際化による価値観の変化、都市化が進む一方で、隣人との付き合いの希薄さから、世間体による離婚悪感も少なくなってきており、離婚に対する考え方も変化してきているようである。離婚に対する願望は、潜在的には相当多いのかも知れない。ただ、それを行動に移させないのは、個人個人の価値値観や、世間の目などが気になるなど様々なものがあろう。しかし、これらが破られるような状況になってくると、一気に離婚率が増加することも考えられる。個人的な考えであるが、離婚率を増加させないよう働く力として、一人一人の内面的な変化である自己改革があるのかもしれない。それは、宗教的なものに根ざすのか、自分自身に目覚めるのか分からないが、いままで外の世界に求めていた価値観を、自分の内面のものに向けるような働きが、離婚率を低減させる力とならないであろうか。
離婚という問題の前に、結婚の問題がある。近年、未婚者の年齢が高くなってきており、結婚しない女性が増えてきている。それは、男女雇用均等法に代表されるように、働く場においては、男女の差が次第に少なくなってきており、女性の経済的な安定性と職業意識の高まりが主たる原因と考えられる。現在のように、経済的にも安定しており、暇をもてあそぶことのない環境にあっては、女性があえて結婚するメリットがないのかも知れない。ただ、そのような環境下にあっても、多くの女性は子供を欲しいと思っているようである。
出生率に関しても、今は、二人というのが標準的であるか、三人、四人と多く持つ傾向も見られる。ただ、働くことに生きがいを持つ女性が増えれば増えるほど、今の環境下では出生率は低下する傾向にあろう。子供を持つ家庭に、経済的、育児環境的に保護する法的対策が講じられていくならば、出生率の低下を防ぐことが出来るかも知れない。
結婚、出生率などの問題は、働くことに生きがいを求めたり、刹那的な快楽を求めたりする意識的な喜びと、子供をもつという本能的な喜びとの間の葛藤であるように思われる。この二つは、人間の本質からみた場合、相反するものか、それとも、何等かな方法によって両者を満たすことが出来るのかは、まだ多く議論する点が残っているように思われる。
若者のフリーアルバイター現象や、集団より個を重んじる傾向、さらには、出生率の低下、企業における滅私奉公的価値観から、活私奉公的価値観への変貌は、人間の本性が求めている自由と何か関係がありはしないだろうか。
最近の若者は、自分の意志で何かしたり、問題意識を持って仕事に取り組んだりすることが少なくなっているようだ。その一つの原因として、少年野球クラブやサッカークラブなどのように、大人によって企画化された社会の中で、子供による子供のための子供だけの子供社会がなくなってきていることが上げられる。全てが大人によって与えられており、そこでは、よりよい成果を出すことだけが目標となる。自然に発生してくる問題に対して、子供達自らが考え、解決していく知恵が育っていないのである。技術や数値など、目に見えるものだけに価値が置かれ、試行錯誤し、失敗の中から何かを学ぶという内面的なものの育成が次第に失われてきてはいないだろうか。親にしても、通信表の学科の得点には大いに関心を持つが、生活態度の評価についてはほとんど気に留めないような状況であろう。また、教師も、教科を通して先生の人間性を教えていくということから、教科だけを教える機械的な存在になってきている傾向にある。近年の教育は、工業化社会に合うような教育になってしまっているのではなかろうか。
子供達の心に影響を与えるものの一つとして、民話がある。民話には、人間の心の奥深くに潜む生命に活力を与える世界に直接働きかける力がある。民話は、動物、植物、そして自然現象までも凝人化し、そこに生命の存在をあんに知らしめている。自然と人間とがある種のコミュニケーションをしながら生きていることを民話は子供達に教えているのである。子供達は、民話を通して、物事の善悪を知り、それを自分の生き方に無意識ながら反映させているのである。迷信やタブーが子供達の生活から消えてきた陰で、子供達が心を癒す心の支えがなくなってきてしまったようだ。
最近の若者のもう一つの側面として、コミュニケーションについての問題がある。家田荘子の「俺の肌に群がった女達」という小説を例に上げ、日本の女性が、日本の男性との間では得られない喜びを黒人との関係に感じていることが指摘された。これにはいくつかの理由があるのであろうが、日本の若者が、すべてマニュアル化されており、恋愛に関しても、女性の気を引くようなノウハウだけを憶えてしまい、生命力のある人間としての本質的なコミュニケーションに欠けているのではないか。毛深い男性が嫌だといわれれば、エステティックサロンに行き、醤油顔がいいといわれれば、醤油顔を志向するという外見だけの評価を気にしてしまう傾向が益々強くなってきているようだ。
人間の欲求は留まるところを知らないが、それを大きく分けると、物に代表される外なる世界と、心に代表される内なる世界に展開される欲求であろう。外なる世界での欲求を満たそうと、人々は、車、飛行機、そして宇宙船と開発してきた。それらは、確かに外なる世界を広げはしたが、内なる世界を広げることにはあまり寄与していない。そこに人々は、物に恵まれながらも、恒久的な幸福感の得られない満たされなさを感じているのである。内なる世界を広めるための手段として、茶室や寺などの日本の伝統的な環境がある。これらの環境は、外なる世界に価値をおいていた西欧にはなく、内なる世界に価値をおいてきた東洋に見られるものである。この内と外との融合から、これからの人間の進むべき新しい道が見いだせるのかも知れない。
以上述べた他に、家電製品の行方、一夫一婦制の問題、国際情勢の問題、仕事に対する価値観と企業の行方等まだいくつもテーマが残されている。2050年を志向しての討論であったが、現状分析の状態で終わってしまったようだ。これらの現状を踏まえ、そして、人間の持つ本性的なものを基本に、改めて2050年を討論してみたい。
14時に開始された討議は、夕飯の休憩をはさんで深夜まで行われた。参加された皆様の活発なる討議に感謝すると共に、今回残念ながら参加できなかった人達の今後のご参加を期待しています。
次回の打ち合せは、7月11日(木)、14:00より、サントリー東京支社にて開催の予定。
配布資料
- 民話・昔話・伝説
- 善行企業論
- 人間の欲求と時空間(配布資料にはタイトルがありませんでした)
以上
- 新しい記事: 第7回 「人間の不易性」
- 古い記事: 第5回 「科学技術の功罪」