- 2007-12-17 (月) 22:57
- 2007年レポート
- 開催日時
- 平成19年11月30日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 男と女
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、内田、吉野、大滝、望月
討議内容
今回は、「男と女」と題して議論した。男と女が生物的に違っていることは確かだが、そのことと人間社会における男と女の営み、考え方、といったもので何か異なることがあるのであろうか。自分のことを表現する言葉として、男の場合には、私、僕、俺、我、手前、小生、拙者などと多様にあるが、女の場合には、私、あたしといった言葉しか思い当たらない。この違いはどこからくるのであろうか。そこには、男と女の営みの異なりが表現されてはいないだろうか。女は内において営むのに対して、男は外の世界とかかわり、それだけ異なった多くの場面に遭遇する。そのことが、自分を表現する言葉に多様性が生まれてきていると言えないだろうか。
この女は内で働き、男は外で働くという生活スタイルは、人間の本性的なものなのであろうか、それとも、それは、人間社会の作り出したものであって、そうしたことは、時代と共に、そして環境と共に変わっていくものなのだろうか。
肉体的にみるならば、男のほうが女より腕力があり、戦闘的である。そのことが、狩猟においても、男が獲物を獲得するために外に出て行き、女は、住居の近くで、集団で身を守りながら、木の実を採るといった生活スタイルを生み出してきたことは確かであろう。いつの時代においても、女が一人で原野に出かけていくことは、それだけですでに身に危険が忍び込んでいる。そうした、本質的なことが、男と女の生活スタイルの異なりを生み出してきたのであろう。それと、どうしても、女は子どもを産み、子供が自活できるまで子供を育てていかなければならないという本質的な営みがある。そのことが、女を内に留め置き、男が外で働くという形態を生み出してきた。したがって、男が外で働き、女が内で働くという生活スタイルは、これまでの人間社会においては、本質的なものであった。
ところが、近代化の波によって、人間社会がより安全な場となり、かつ、仕事の質が、肉体労働から、精神的な仕事へと変化してくるにしたがって、女が外で働くことのできる環境が生まれてきた。そうした環境の中で、唯一残ってきた問題が、養育の問題である。子供を産むのは女というこのことは、どんなに時代が変化しようとも、生活環境が変化しようとも変わらない事実である。社会は、男女に同じ活動環境を与えてはいるが、その環境に入っていくのに、女は、依然として、子供を産み、育てていくという営みから解放されてはいない。もちろん、保育機関の充実や、子供を養育する父親の数も増えてきてはいるけれど、子供を産むという女の特質を考えると、そうした形だけの支援だけで、全てが解決できるとは思えない。
また、男女雇用均等法によって、雇用は男女平等になっていったとしても、男と女の特質の違いは、仕事の質の異なりとなってくるであろう。女は現実的であるのに対して、男は、概念的であるといわれている。女が抱く夢は、5年後、10年後という長期にわたる夢ではなく、今日、明日どうするかといったことへの関心のほうが高いらしい。これに対して、男の抱く夢は、5年先、10年先のことが多い。企業で働く女の人たちの口からは、定年後にこんなことをしたいという第二の人生的なものを聞くことは少ない。これに対して、男の人たちは、定年後にこんなことをしたいとか、今いる会社を離れてこんなことをしてみたいということを時として語るものだ。今を否定しながら、現実を否定しながら、未来に夢を託す。そして、それが生きる力になっている。そうした営みが、男のロマンという言葉によって表現されていたりもする。それは裏を返すならば、男が本当に好きな仕事をしていないということかもしれない。
女が、現実に足をしっかりと踏まえて生きているのに対して、男は、現実の世界から逃避しながら、概念の世界で生きているともいえようか。そのことが、社会を作り上げていくうえで、男の仕事と、女の仕事に異なりを生み出しているようにも思える。企業は、現実に営まれていることへの取り組みと同時に、未来への新たな計画も必要とされる。その未来への計画は、男のロマンと係わっているように思える。現実を否定しながら、未来に新たな世界を夢見る男の特質が、企業を変え、社会を変えてきているのではないだろうか。もちろん、男が全てそうした取り組みをしているわけではないが、企業や社会の変化の多くは、男のこの現実を否定し、未来に夢を託す特質に負うところ大ではなかろうか。
同じ言葉を語っていても、男の意味するものと、女の意味するものとでは大分隔たりがありそうだ。たとえば、この会で話題となったのが、打算という言葉の意味である。女も、男も打算で行動することが間々ある。男がこの打算という言葉に託している意味合いは、お金を得ることであったり、地位を得ることであったりと、世俗的な価値を求めての営みに打算という言葉を使う。これに対して、女がこの打算という言葉を用いるのは、男のそうした意味合いはもちろんないことはないが、それよりも、快、不快といった情緒的なものとかかわり、快を得ることを打算と表現しているらしい。
こうした言葉のもつ意味の男女差は、明治維新以降に作られた言葉に大きく現れているのかもしれない。明治維新以降に西欧から多くの新しい言葉が移入され、それを日本語に訳す時に、それを訳した男の感覚で意味が作られてきた。そのことには、あまり気付くことなく、我々は共通な言葉として日常それらを用いているけれども、そうした言葉の意味の底には、男と女の意味していることの異なりが横たわっているように思える。そして、そうした異なりを知らずに言葉の意味をそれぞれがそれぞれの解釈によって捉えているために、男と女の間に交わることのない世界が生まれてきているのではないだろうか。
男の社会では、人間と人間とのネットワーク、いわゆる人脈というものが大きな力を発揮する。そうした人脈の力を駆使して、社会を作り上げていく能力は、どうも男のほうが勝っているようだ。それと、男の世界には義理と人情といった任侠の世界とも思える心の世界が広がっていて、先に述べた打算なく、この人のために命までかけてしまうといった世界が生まれてくる。赤穂浪士の行為は、まさにこの仁義とかかわった世界であろう。そして、時として男の世界には、こうした義理と人情と係わりながらカリスマ的な人間が生まれてくる。そのカリスマ性に人は引き付けられ、その人のために行動しようとする動機付けになっている。こうした行動も、男の世界に特徴的なものかもしれない。そんなことを考えると、仁儀礼知信を教える儒教の世界は、男の価値観から生み出されたもののように思えてくる。そして、日常当たり前に使ったり、思ったりしている、言葉、道徳、情緒、宗教、科学等などにおいて、見えない世界で性差が広がっているのではないだろうか。
ただ、そうした見えない世界での異なりを互いに理解し、許しあう源に、愛がある。愛がなくなる時、互いの違いだけがクローズアップされ、あたかも種の異なる生物のように互いを排斥することになる。現代社会にじわじわとその比率を高めてきている熟年離婚も、いつしか互いを思いやる愛を忘れ、互いの異なりだけが心を支配してきてしまった結果であろう。男と女は、元々、互いに異なる世界を抱きながらも、それが愛によって支えられ、互いを理解している気にさせているのかもしれない。そして、その愛が強くなる時、互いに持って生まれた異なりを理解し合い、それぞれの異なりを大切にした不平等の上に成り立つ平等の社会が生まれてくるのではないだろうか。
次回の討議を平成20年1月25日(金)とした。
以 上
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