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第132回 「美しいということ」

開催日時
平成22年3月26日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
美しいということ
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、下山、望月

討議内容

今回は、「美しいということ」と題して議論した。議論を始める前に、美しいという言葉で連想するものを挙げてみた。美しい人、風景の美しさ、生き生きとしている姿、スポーツ選手のフォーム、美しい立居振舞、歌声、音楽、花の美しさ、文字の美しさ、などが挙げられた。こうした美しいという言葉からイメージされたものを分類してみると、大きく二つに分けられる。一つは、自然そのものと係わった美しさ。ヨーロッパアルプスの美しさ、花の美しさ、海の美しさといったものは、自然の美しさである。これに対して、もう一つの美しさは、人間と係わったものへの美しさである。美しい人、スポーツ選手のフォーム、音楽、歌声、文字の美しさといったようなものは、人間が係わったものへの美しさである。

 自然が描き出すものは、海、山、星空、夕日、虹、雪景色といった無機的なものから、花、紅葉、黄金虫、鳥、馬や犬といった生命体に至るまで、様々なものに美しさを感じさせる。なぜ、人はそれらに対して、美しさを感じるのであろうか。色彩、形、音、香り、そうした五感への刺激に対して快適さを生まれながらに抱いていて、それを美しいと感じているのであろう。では、一体そうした色彩、形、音、香りがなぜ快適さを醸し出すのであろうか。そこには、自然本来持っている本質的な何かがあるように思える。たとえば、純粋なもの、汚れのないもの、光り輝くもの、調和したもの、そうしたものが、色、音、形というものと微妙に係わりながら、総合的に判断した結果として、美しいと感じられているように思える。

こうした自然に対して感じる美しさの源泉は、人間が作りだしたものにも当然かかわりを持ってくるのだろうが、人間の生み出すものに対する美しさには、そうした自然のもっているものとは次元の異なった何かが係わっているように思える。たとえば、定規できちんと引いたような文字よりも、書道家が筆で描いた文字の方が魅力的だし、美しさを感じる。ゴルフ、野球、相撲、どんなスポーツでも、その道を極めた人のフォームは美しく感じられる。そこには、道を極めたものだけが表現できる美しさがある。きわめて自然な流れ、どこにも力が入っていない、無駄なものが取り除かれ、全体で一つとなった調和がある。

人間が生み出すものは、どんなものでも理性的なものが係わっている。でも、理性的なものが主役になっているものは、どこかしら機械的で、画一的で、整然とはしていても、美しさは感じられないであろう。それは、我々が初めて何かを習う時の状況である。たとえば、ゴルフを初めて習う人は、クラブの握り方から、テイクバックの仕方、ボールをショットする時の目線、などなど、一つ一つ論理的に教わっていく。そうした論理をもとにして、意識的にフォームを作っていく。まだフォームに意識が強く係わっているときには、どこかしらぎこちなく、決して美しいフォームとは言えない。それは、文字を定規で書いているときのようなものである。ところが、練習を重ね、悪いところを意識的に直しながら、段々と上達していくにつれて、フォームの一つ一つに対する意識は薄れてくる。やがて、全体で一つ、すなわちイメージによってフォームが作られてくると、見た目にもスムーズなフォームになってくる。さらに極めて行くと、フォームそのものを意識することがなくなってくるであろう。すべては無意識の領域に任せ、自然のなすがままに身を任せた時、無駄のない美しいフォームが作られてくる。それは、道を極めた書道家の文字とも共鳴するものであろう。

こうしたことを考えてくると、人間の生み出すものに対する美しさは、意識されたものから始まって、無意識な領域、すなわち、全体で一つとなる調和された世界に身を任せた中で生み出されたものに美しさを感じていることが分かってくる。それは、創造的であり、全体的であり、調和した世界であり、生命と深く係わっているように思える。そして、ここに来て、人間の生み出すものへの美しさが、自然の生み出したものの美しさと共鳴する世界が生まれてくる。すなわち、人間の感じる美しさは、生命そのものを素直に表現しているものを直感的に感じている時ではないだろうか。

人間の感じる美しさには、上で述べた形態的なものの他に、その人の醸し出す心の世界に左右されるものがある。始めはそれほど美しいとは感じなかった人でも、話しているうちに、その人の心の美しさが伝わってきて、美しい人に見えてくることがある。これなどは、形態的な美しさを飛び超えて、その裏側にあるもう一つの美しさが現れてきた例であろう。それは人の価値観と係わっている。すなわち、人の抱いている価値観に共鳴した心を抱いている心を持つ人に魅力を感じ、その心を美しいと感じているのであろう。

こうしたことを考えると、美しさというものに、先に述べた自然の持っている本質的なものへの美しさの他に、価値観と係わったものがあることが分かってくる。その価値観は、民族によって異なったものから、人類共通なものまでさまざまあるであろう。そして、その究極のものが、人類共通に係わった価値観であり、自然が人間をして求めさせようとしている崇高なる心の世界であるように思える。その崇高なる心の世界は、仏教でいうところの悟りの世界や中国思想の中で語られている道とも共鳴するものなのかもしれない。

いずれにしても、美しさの根源は、この宇宙を作り出し、生命体を生み出し、そして人間を生み出した生命そのものと係わっていることは確かであろう。生命そのものであふれたものを人間は直感的に美しいと感じているのではないだろうか。

次回の討議を平成22年5月28日(金)とした。       以 上

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