- 2005-05-09 (月) 22:28
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年4月28日(木) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 宗教
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、下山、高須、大井、望月
討議内容
今回は「宗教」と題して議論した。討議を始める前に、参加者一人ひとりに宗教に対する印象を表現してもらった。それらを列記すると、何かを信じるもの、なんとなく胡散臭いもの、後ろめたいもの、死を連想させるもの、弱い自分の頼りどころ、バーチャルなもの、といった答えが返ってきた。
宗教の持つ意味を広辞苑で引いてみると、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された禁忌された神聖なものに対する信仰・行事とある。しかし、日本人の中を流れる宗教は、神聖なものに対する信仰というよりも、葬式であるとか、お盆であるとか、死者とかかわる印象が強い。だからであろう、宗教が、死と係って暗い、忌み嫌われるような印象をもつのかもしれない。ただ、これは日本人だけのことではないようだ。キリスト教にしても、教会には、十字架があったり、十字架にかけられたキリストの像があったりと、そこには死と係る暗い雰囲気が流れている。宗教が死と係っているものであることは、宗派に係らず共通しているものなのかもしれない。それは、死に対する恐怖、そして、その死の彼方にある見えざるものへの畏敬の念、とかかわっているからであろう。
ただ、それらの印象は、宗教を第三者的に見ている人たちにとってのものであり、宗教を自分のものとしている人にとっては、宗教が暗く、死とかかわったという印象は少ないのではないだろうか。むしろ、宗教は、様々な苦悩であふれる人間社会に、その苦悩から解放されるための精神的な導きとしての役割を秘めているように思える。そして、その苦悩で満ちたように見える心の世界に、愛であるとか、慈悲であるとかいった明るい世界をもたらすのが宗教の果たす役割のように思える。
人類が、まだ原始的な生活をしていた頃、人間は、自然と密接なかかわりをしていた。狩猟民族にとっては、とらえた獲物は、自分達の命を維持するための貢物であり、そこには感謝の念が込められている。アイヌの人たちが行う熊祭りにしても、それは、獲物を与えられたことに対する感謝の表現である。考古の時代に描かれた洞窟壁画には、さまざまな動物の姿が描かれているが、そこでは、宗教的な儀式が営まれていたことが推測されている。それらを描くことによって獲物をより多くとらえることができるようにとの願いと、獲物を得られたことへの感謝の思いとが込められていたのかもしれない。原始時代の人たちにとっては、日々変化する自然の中で、自分達の命を維持することのできる獲物が与えられたことに対する感謝と、その獲物を与えてくれる絶対者への畏敬の念とをたえず抱いていたのであろう。
狩猟民族に限らず、農耕民族にしても、自然との係わりは密接なものであった。水を運んできてくれる雨は、天から捧げられたものとして、自然の内に秘められた超越的なものに対する畏敬の念を生み、それが宗教的に儀式となってきたものと考えられる。
このように、人間と宗教との係わりを原点にもどって見つめてみると、そこには、生とかかわる人間の心が表現されている。今を生きていることができるということ、そのことだけでも、そこには理性で考えられるようなものを超越した何かがその生の裏に秘められていることを直感的に感じることができる。その直感が、死を無として切り捨ててしまうのではなく、死の彼方に、今を生きている生と共鳴する何かが横たわっていることを直感的に感じさせているのではないだろうか。要するに生の中に死があり、死の中に生があって、生と死とを共通に貫いてあり続けているもの、それを我々は直感的に感じ、そのものに畏敬の念を感じているから、宗教的なものが生み出されてきたように思える。
この宇宙には、人間を誕生させたように、人間の理性ではとらえることのできない超自然的な世界が秘められているのであろう。そのことを我々は無意識的に感じ取っている。それが、何とも表現できない畏敬の念として、手を合わせる信仰心を生み出すことになっているのであろう。その超自然的な世界を時として人は垣間見ることがある。それが、宗教体験である。自分の意識できる意志とは直接係ることのない世界から声が聞こえてくる。それは、超自然的な世界からのメッセージであり、神の言葉である。W・ジェイムズ著「宗教的経験の諸相」には、多くの人の宗教体験が語られている。その宗教体験を経験したものは、神なるものとしての絶対者の存在を確信する。その確信が、宗教活動の基盤にはある。
宗教とは、理性では計り知ることのできない生命の本質に人間を導こうとする自然の力によって生み出されたものであり、その目的は、今を生きる我々の内なる世界を流れている悠久な生命に目覚めさせるためのものであると思うのだが。
次回の討議を平成17年7月29日(金)とした。
以 上
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コメント:7
- 松本圭市 05-06-02 (木) 21:09
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宗教とは?
「宗教体験を経験したものは、神なるものとしての絶対者の存在を確信する。その確信が、宗教活動の基盤にはある」とは確かに思うのですが、世の中の宗教をやっている人(信者)は皆、宗教体験の経験者なのでしょうか?きっと体験してない人も沢山いると思います。そうすると宗教体験を経験した人とそうでない人がやっていることは別のことになるのでしょうか。
私自身は宗教体験をしたことはなく、そういう意味では「宗教というもの」を結構、胡散臭く思っている方です。しかし漠然と「自分自身がそれによって生かされているところの大いなる存在」を感じており、それが精神のよりどころになっているものでもあります。
ここでひとつ疑問があります。それは宗教(あるいは信仰)というのは信じられるからするものなのでしょうか?あるいは完全には信じられないから、信じられるようにがんばるものなのでしょうか?つまり宗教における個人の「意志」のありかたが、私の中ではいまひとつ明確に捉えられないのです。
どなたかお考えをお持ちでしたらフィードバックください。
- 土岐川 05-06-05 (日) 0:00
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Re;宗教とは?
「宗教体験を経験したものは、神なるものとしての絶対者の存在を確信する。その確信が、宗教活動の基盤にはある」(W・ジェイムズ著『宗教的経験の諸相』より)は、望月さんが日本人と西欧人の感じる宗教観の違いを見る例として人文研で取り上げたものです。『宗教的経験の諸相』には、それまでごく普通の暮らしをしていた人がある日突然、何かの宗教体験をして、天啓に導かれるという西欧人の例が多数掲載されているというもので、日本人が日々修行を重ねた先に至るという悟りのイメージと異なるね、という解釈が人文研で交わされました。レポートの文面とはちょっと違ったニュアンスだったことを書き添えます。
そんなわけで、「宗教体験を経験したものは、・・・」という内容は、それほど突っ込んで議論を膨らませたものではなく、当日の研究会の話題の軸になったものではないと記憶しています。もっとも、望月さんは、ひょっとしたらもう少し突っ込みたかったのかもしれませんが、そのまま流れてしまったという印象です。
松本さんが提起された宗教体験を経験した人とそうでない人がやっていることについては、上記のような背景を考慮したところで、超自然的な宗教体験の有無という設定を外して、一般に宗教活動をしている人たちについて語る場合に、大きな捉え方の違いというものがあるのかどうかという解釈に置き換えてみても、大きく論点の差し替えにはならないように思えますがいかがでしょうか?
宗教について「信じられるからする」という一つの考え方から考えて見ます。例えば、科学は物の原理を突き詰めて、論証を成立させることによって一般化し、みんなが受け入れるものになるというプロセスを踏みます。思考する本人の外側にある世界から事前に納得できる何かを受け取ることで、闇雲にまがい物を取り込んでしまう危険性を回避できるのです。つまり、事前の保証を得て、理解できないものは受け取らないということで、これはこれで、生命が命を継続的に保持する一つの方法だと思えます。
しかし、世の中で生きて(生かされて)いる私たちは、理屈が通ろうが通るまいが、自分の思い通りにならないことを数多く実感し、それを打破困難な厚い壁と受け取ることもあります。また、それが世の中として当たり前だと感じとる場合もあります。いずれの場合にもここに共通していることは、自分個人の理解を超えた大いなる存在が前提にあるということがいえます。ここには、科学のやり方と異なる部分があります。理解はできないけれども、理解できないものの存在を認めて、それを受け入れる(受け入れざるを得ない)ということです。そこには、理解しようとがんばるというあり方とも違う精神の姿がイメージされます。理解できないのは本人の能力不足によるという解釈もできますが、それは“がんばれば何でも理解できるはずだ”という考え方に基づいています。理解することによって受け入れるという人間の理解のしくみそのものに理解の限界というものがあると想定すれば、それは理解能力の訓練が足りないのではなく、理解が届かないものがあるんだということは比較的簡単に想像できます。そして、自分というものは、そうした理解を超えて存在するものの海に浸っている存在であり、そうした海は自分の外だけでなく内部も浸しているということもイメージしてみれば、それまで描いていた自分という定義(枠のあり方)は自分の理解できる範囲内にこだわる枠組であったと自分を外から見る眼で意識でき、もっと広く広がる海の存在に身をゆだねたイメージで新たな自分がイメージできるようになるのかもしれません。そうすると、何でも理解できるはずだ、という知を偏重する思い上がりが消えていきます。前述の科学のやり方は、あるレベルまで成果をあげたことは事実で、それはこれから先も効果的なやり方として機能していくとおもいますが、人間の生命活動はそれだけで進めることはできないということがあり、そこに、宗教が存在する理由があるのではないかと思われます。それは、信じられるからという理由によらない、がんばるという無理を強いるやり方でもないあり方でイメージされるのですがそれが宗教のイメージに重なるといいなあと思います。
ここでとても不思議なことが浮上します。人間は自分の理解の枠内のことしか理解できないといいながら、この文章で “本来理解できないこと”について語っているということは、それが理解できるということでもあり、言っていることに矛盾があるように思われるかもしれません。でもだめもとで、“わかるということに含まれる限界”と、その“限界をわかること”によって飛躍する思考というものの可能性について思考を進めてみたいと強く思うのです。
私たちの先達には悟りを啓いた人がいることは事実で、かといってそれは決して多くの人たちではないということも併せて考えると、その意味するところを汲み取ることは何かの役に立つと思えます。私たちの多くは、自分が遭遇する場面を映画館のスクリーンに映し出される画面に見立てて、そのストーリーを人生にたとえて理解するかもしれません。そのイメージは、銀幕に何が映っているかということに意識をフォーカスしますが、その画面に映し出されている全てのエレメントが一点に集結するカメラのポジションに意識が及ぶことはまれではないかと思います。そのカメラポジションにあたるものを視座と呼んでみます。とすれば、悟りを啓いた人とは、思考を銀幕の画像から、展開するカメラのポジションも含めた視界を得ることができるようになった人ではないかという風にも考えられます。視座というものは、そこに集結する全ての像の秩序を統合するものですので、一見矛盾すると思えることも、一つの視座の範囲内における不整合なので、視座を自由に移行できるということは、別の次元の秩序が同時に成立するマルチの視座を得たということになるのではないでしょうか。宗教における個のあり方という理解を超える内容へのつたないイメージです。
- 松本圭市 05-06-05 (日) 3:26
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土岐川さん、フィードバック、ありがとうございます。
「悟りを啓いた人とは、思考を銀幕の画像から、展開するカメラのポジションも含めた視界を得ることができるようになった人ではないかという風にも考えられます」の比喩は私にとっても理解しやすいです。望月さんがよく表現される実在と時空間の“円錐形モデル”とも通じるものがありますね。
上記の考え方でいくと、「悟りを開いた人」は“カメラのポジションの視座をも得ることができるようになった人”であり、「悟りを開こうとしている人」は未だそのポジションを得てはいないが、“そのポジションが存在することに疑いをもっていない人”、あるいは意志的に“そのポジションが存在することに疑いを持たない”という態度を決めた人ということになるのでしょうか?
私にとっては、むしろ漠然とした「自分の理解を超えた大きな存在」を受け入れるのは、あまり困難ではないような気がするのです。しかし一度死んだキリストが生き返っただの、釈尊が何億回(いやそれ以上?)生まれ変わっているだとか、聖戦で命を落としたものは天国で何人もの処女を与えられるだのを信じるのは、子供のころからプリンティングされるか、あるいはよほど意志的にそれを受け入れようとしない限り受け入れる難しいのではないかと思うのです。なぜならば、それらはあまりにも「自我の永遠性」を強調した臭いがプンプンと漂ってくるからです。かといってキリストや仏陀やマホメットがインチキとは思えません。やはり何かを悟った人だとは思う(思いたい)のです。
ひょっとしたら、彼らは本当は「自我の永遠性」でなく、「生命の永遠性」を人に伝えたかったのではないでしょうか?しかし、それをそのまま伝えるのは困難だったので、説明の方便としてそれらを説いたのではないでしょうか?もしそうであったとしたなら、これらの物語は現代に生きるわれわれにとってはあまりにも古めかし過ぎて有効性を失っているとはいえないでしょうか?むしろ現代科学の方が「生命の永遠性」との親和性が高いような気がします。
しかしここで「自我とは何か」という問いが発生してきますが、冒頭のスクリーンとカメラポジションの比喩でいうならば、「自我」とは何でしょうか?
- 土岐川 05-06-05 (日) 8:38
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自我とは?
前述のコメントにその思いの一部を書いたつもりでした。
『理解できないのは本人の能力不足によるという解釈もできますが、それは“がんばれば何でも理解できるはずだ”という考え方に基づいています。理解することによって受け入れるという人間の理解のしくみそのものに理解の限界というものがあると想定すれば、それは理解能力の訓練が足りないのではなく、理解が届かないものがあるんだということは比較的簡単に想像できます。そして、自分というものは、そうした理解を超えて存在するものの海に浸っている存在であり、そうした海は自分の外だけでなく内部も浸しているということもイメージしてみれば、それまで描いていた自分という定義(枠のあり方)は自分の理解できる範囲内にこだわる枠組であったと自分を外から見る眼で意識でき、もっと広く広がる海の存在に身をゆだねたイメージで新たな自分がイメージできるようになるのかもしれません。そうすると、何でも理解できるはずだ、という知を偏重する思い上がりが消えていきます。』という表記です。
スクリーンとカメラポジションの比喩でいうと、“スクリーンしか見えない場合の私”を“自我”と呼んでみましょうか。すると“カメラポジションを含めて受け取れる私”は“永遠の生命に同化した私”ということがいえるのかもしれません。自我の枠内で永遠の生命のイメージを欲しがっている場合に(ほとんどの場合がこの例かとおもいますが)無理があるのは承知で、何らかのものを提供すれば、スクリーンに映し出せるもの(キリストの生き返り、ブッダ、マホメッドのたとえ話にとどまらず、科学的に語ることも含まれます)で、とりあえずの理解に近づけることになるのだと思います。表象されたもの(文字)には見えないその奥のものを悟れということを仏教で不立文字というそうです。それは“私”を理解の狭い枠の中からひらくことでしか得られないのかもしれません。狭い枠のままで知識として欲しがっている状況は、知識を欲しがっている本人には見えにくいようになっていることがなんとも不条理な落とし穴のように感じます。“私と自我”ということを深く理解しようとすれば、ある部分から先は言葉や文字(それはスクリーンに映し出すことが可能な道具です)によるアクセスに限界があるように思えます。 - 松本圭市 05-06-06 (月) 13:35
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土岐川さん、たびたびのフィードバック、ありがとうございます。
「狭い枠のままで知識として欲しがっている状況は、知識を欲しがっている本人には見えにくいようになっていることがなんとも不条理な落とし穴のように感じます。“私と自我”ということを深く理解しようとすれば、ある部分から先は言葉や文字(それはスクリーンに映し出すことが可能な道具です)によるアクセスに限界があるように思えます」ということは、人文研の言語手段としたアプローチでは不可能ということでしょうか?やはりこういうことはイメージの交換・共有というところが限界なのでしょうか。あるいはそれを限界と捉えるのは知識偏重型の認識スタイルなのであって、イメージの共有こそがこういった研究の到達点なのでしょうか。その場合、例えばカントが言っていたと(望月さんから聞いた)いう「理性無き直観は暗闇である」という考えはこの場合どうなるでしょう? - 土岐川 05-06-07 (火) 22:56
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文章を書くということは、ある意味で恐ろしいと、今、感じています。自分が書いた文章を読むと、自分がまるで悟ったかのようなきな臭さがプンプン漂っているのを感じます。私(土岐川)は“私”ということと“わかる”ということに疑問を感じて自分で納得できる答を求めているところです。ですがそれはまだ模索している途上で、とりあえずのイメージを文に書いているとご理解ください。
また、人の行動や理解について語っているのは、自分に問いかけることによって一般の人を理解しようと試みていることなので特定の個人について語るものではないことをご理解ください。
松本さんのコメントは、質問の組み立てがすごいと思います。例えば、“人文研の言語手段としたアプローチでは不可能ということでしょうか?”という内容ですが、“人文研のアプローチは言語手段によっているのか?”というアクセスのとば口を開きます。“イメージの共有こそがこういった研究の到達点なのでしょうか”からは、“到達点を明確化することで存在の成立があるのか?”といった疑問が、私の思考を刺激してくれます。
少し、前段が長くなりました。
人間がものを考えるということは、今の理解の範囲に収まるものをかき集めるあり方と、理解できる範囲を膨らませるというあり方があると思います。特に深く考えを進める場合は、前者のやり方ではカバーできないので後者のやり方が必要になると思うのです。そしてそこから、さらに理解の範囲を広げるということを想定すると、あるところから先は届かない限界があると思えるようになったのです。
またまた、比喩を用いますが、私たち人類の歴史を、巨大な船に乗って、大洋を航海していることと想像したとき、その船のしくみと行く先などをイメージするには、船を外から見る視点で描く設計図が役に立つと思えるのです。私たちの身体は船から外に出ることはできないのですが、思考にはそれをイメージとして描く力が内包されているように思えるのです。それが、文学や、芸術や、科学などの活動につながっていると考えられます。上述の3段構造によれば、その思考が描くのは船の設計図までで、大洋のマップや、海と船と星と船の乗員たちの全てを包んでいる見取り図を描くことについては図面表現で思考することの限界を超えていると思われるのです。ところが、この決して知ることのできない限界があるという認識も、認識なのです。“無知の知”とはこういうことを指していたのかもしれません。ここに限界を超える可能性があるように思えるのです。但しそれは、知のキャンバスに描くことの努力だけではたどり着けないと思えるのです。
もう少し別の視点の原初的なところからイメージを描いてみます。
私たち人間の原初的な生活活動においては、情報は身体行為と直結したものでした。畑を耕す行為は、同時に、現在の天候と結びついていて、手で触れる土は、虫やバクテリア、植物、水分、有機物、無機物などが相互に働きあう総合的なものとして、まさに世界を理解する土壌でした。海上の小舟の漁師が、雲の動きから天候の変化を読み、水面下の潮の流れを読み、海鳥の動きから魚群の位置を見通すことも、全体がつながった世界から、体験を通して必要な情報を読み取ることでした。世界を理解することは、生きることに直結した問題であり、そこでは、経験が、私たちが理解の幅を一歩ずつ継続的に広げるしくみとして尊重され、経験豊かな長老が尊敬されていたのです。
その後、情報は、経験を通して直接獲得するものから、言葉、文字、画像、映像等の媒体を介して、他の人の体験を通して得た情報を経験抜きで間接的に獲得できる特性を持つものに転じました。このことによって私たちは、自分の経験の枠や、体験を共有するコミュニティの枠を超えて、自分では未体験の情報を得ることが可能になったのです。そして私たちはこのときから、自分の経験と直結しない情報を補う行為として、情報の背景として本来あるはずの経験を頭の中でバーチャルに構築するようになったと考えられるのです。そのバーチャルな経験は、自然の総合力の中の実体験に比べると、限られた条件枠内でのシミュレーションにとどまらざるを得ない貧相なものではあるのですが、私たちは、未体験の情報が得られることを、デメリットを補って余りあるものと考え、情報の生産と流通を加速してきたのです。その結果情報は、そうした状況を日常として繰り返しながら形づくってきた私たちの脳の理解のしかたの枠におさまりやすく加工された情報こそが価値を持つという、逆方向の価値条件を付与されるという現象もおこってきたのです。この逆方向の価値観で情報をやり取りするフレーム内で泳いでいると、理解できた気にはなれても、深いところに届くものにはなりえないということを思うのです。農耕や漁業を例に挙げた原初的なレベルの生活と情報のあり方に内在した実経験と情報の密着度が深い理解の場にも求められるのではないかと思えます。ただ、人間が初期に間接的な情報との付き合い方を選択したということは、私たちの理解を直接的な情報との付き合いを越えて深める道を歩んできたのかもしれないと考えてみることもできそうです。それは、自らの未体験の情報の量を増やすこととは異なる何かを見つけることで、情報の質を変えることにつながるかもしれません。このイメージから、カントの「理性無き直観は暗闇である」をひもとけるかもしれません。
文字数の関係がありますので、バーチャルの起源の考察と情報価値の逆転について書いたあたりでとめます。
最後に、松本さんの提言からの解釈“人文研のアプローチは言語手段によっているのか?”について書きます。人文研は場を共有したコミュニケーションであって、言語手段はコミュニケーション手段の一部と考えられます。言語を超えて伝わるものがあって、むしろその価値のほうが重要だったりします。そこに、可能性の芽が見えるような気がします。 - 松本圭市 05-06-08 (水) 20:30
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「私(土岐川)は“私”ということと“わかる”ということに疑問を感じて自分で納得できる答を求めているところです。ですがそれはまだ模索している途上で、とりあえずのイメージを文に書いているとご理解ください」とのお言葉、もちろん了解しています。私自身、正解や真実を教えてもらいたくて質問しているのではなく、違う視点や立場から光を当ててもらうことにより、自分自身の漠然とした考えに、輪郭を見出したいというのが動機なのです。
土岐川さんのおっしゃるように文章というのは危険な側面を持っているのは間違いないと思います。一つのことを明確に伝えるためにはそれ以外のことを切り捨てなければならないですから。そのシビアさは、どんどん主旨が変化しても成立してしまう話し言葉の比ではないと思います。そのような文章の性質を互いに認識した上で議論できるのなら、このブログは非常におもしろいものになりうるのかなーと思っています。
バーチャルな情報とヒューリスティックな情報の話、おもしろいですねー! 話を宗教に当てはめると、教義やそれに対する考察はバーチャルで、「宗教的体験」はヒューリスティックなものと言えるのでしょうか? とするならば、宗教的体験を経験して、人間は土岐川さんの言う「第3段階の認識」(大洋のマップや海と船と星と乗組員たちのすべてを包む見取り図)に初めて至るということですね。
私がバーチャルな情報が必ずしもヒューリスティックな情報に劣らないと思うのは、土岐川さんがご指摘されているように「脳の理解のしかたの枠におさまりやすく加工された情報が価値を持つ」というまさにその点にあります。それは対象(物自体?)を理解するためには足枷になると思いますが、「場を形成する」という観点からはヒューリスティックな情報以上の価値を有すると思います。
例えば「信号機」。信号機の青・黄・赤の点灯自身は単なる約束事以上のものではありませんよね。「本当に青なのか、黄緑ではないのか?」といった質問は意味をなしません。しかし人はその信号機の情報を受け入れることでスムーズな交通の場を獲得している。全体が有機的に動くわけです。この原理自体は社会活動や経済活動を成り立たせているものと同じではないでしょうか?そしてこのようなバーチャルな情報の積極的な活用は、決して人間が初期に選び取ったものではなく、人類の歴史でいうとかなり後の方でなされたもので、それは出来るだけ沢山の人間が、全体で有機的な動きができるようになることを志向した人類の種としての選択ではないかとも思われるのです。養老さんおっしゃるところの「バカの壁」は、個人単位でみると「認識の壁」ですが、人類全体を包み込むような大きな家を構築するための建材にもなっているのではないでしょうか?