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第145回 「宗教」

開催日時
平成24年5月18日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
宗教について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、下山、大瀧、平賀、伊藤(雅)、望月

討議内容

今回は、「宗教」と題して議論した。宗教と聞くと、まず頭に思い浮かんでくることは、17年前のオウム真理教の地下鉄サリン事件がある。また、アルカーイダの聖戦といわれるテロ事件がある。いずれにしても、近年の我々が抱く宗教に対するイメージは、テロや戦争といったあまり芳しくないイメージがある。こうした宗教団体や宗教組織がもたらす悪事は、一体宗教のどこから生まれてきているのだろうか。一方では、神の存在、神と愛、あるいは仏教で言われている慈悲といった、きわめて崇高なイメージが宗教そのものにあるのに、どうしてその宗教が基本となって、戦いや悪事が生まれてきてしまうのであろうか。

 かってクウェートで仕事をしたことのある伊藤さんは、クウェートの人たちの抱くイギリス人への怨念を感じたことがあるという。その怨念は、クウェートがイギリスの占領下にあった時代に、イギリス人から受けたむごい仕打ちが根にあるからなのではないかという。こと左様に、人間には、歴史や風土とかかわった無意識的情念が心の底に記憶されていて、そうしたものが宗教的なものとして生まれてきているのではないかと伊藤さんは言う。

たとえば、日本のような緑豊かな温暖な風土のもとでは、自然に対して感謝する気持ちが働き、それが村々に鎮守の森や、神社といった形で生まれてきている。これに対して、砂漠的な風土のもとでは、現世での生を否定し、宇宙の彼方にいる神にひたすらすがろうとする一神教としての宗教が生まれてきているのではないかと。

ただ、こうした風土や歴史とかかわった宗教論は、宗教を研究する専門家の意見として、様々な意見が述べられているし、そうしたことに一つ一つかかわって行く意味もあまりなかろう。むしろ、それよりも、そうした風土や歴史と係りながらも、その根底で、宗教を生み出している人間の心の源は一体何であるのか、そのことについて議論してみることにした。

砂漠の地に生まれたとされるキリスト教、森林的風土の中で生まれたとされる仏教、そうした宗教の根幹には、風土に左右されない共通な目的というか、人をして導こうとする同じゴールがあるように思える。たとえば、キリスト教の聖典である聖書には、確かに砂漠的世界で展開されてきた様々な戦いやそうした戦いにまつわる物語が描かれてはいるが、そうしたことを語りながらも、その聖典が人を導かんとするものは、悠久な命の存在である。一人一人が、今を生きながら、永遠の命によって支えられている。そのことを知らしめるためにイエス・キリストはこの世に誕生したのだとある。同じように、仏教の一つの聖典である法華経にも、一人ひとりの心の中に永遠の命が脈々と流れていることを知らしめるためのことが、何度も何度も繰り返し語られている。そして、その仏教では、人が悩みの種とする生老病死の問題は、一人一人が、悠久な命のもとで、生も死もない世界の中にいることに気付かない無知からきているのだという。

こうした宗教の教える共通なことを考えてみると、人間には、永遠に生きたい、死のない世界に行きたいという、暗黙の願望が心の底に働いているように思える。そして、その願望が宗教と結びつく心を生み出しているのではないだろうか。そのことは逆に、人間をこの世に生み出した宇宙生命は、人間をして、その人間を根底で支えているものが悠久な命であることを人間に覚知させようとしているように思える。すなわち、人間は、肉体に意識が支配された未熟な意識を持ってこの世に生まれてきて、そのために、生と死のある有限な生命の中で生きていると思い込んでしまっているのだが、その未熟な意識を完成されたものに向かわしめようとする心の動きが、宗教とかかわらせる意識を生み出しているのではないだろうか。

一人ひとりの心の底に、永遠の命が宿っているのに、人間はもって生まれ浅はかな知恵によって、そのことに気付かずに、有限な命と思い込み、その中で悩み苦しんでいるのかもしれない。そして、その永遠の命を無意識に感じていて、それを神であるとか仏様であるとして感じ取っているのではないだろうか。

人生不可解なりと思い込み、自殺に追い込まれていく人の心を支配しているものは、死の恐怖よりも、崇高なるものを手にすることのできない不安定なやりきれない心であろう。それと同じように、聖戦として自爆テロに走る人の心を支配しているのも、崇高なるものへの帰依であろう。人間の心の中に、悠久な命としての崇高なものが無意識なまま存在していることが、人をして宗教的なものに向かわしめる原動力になっているのではないだろうか。

それが、無意識だけに、その無意識をある教えによって意識化させ、知識として学んでしまった人たちは、それが無意識の世界にある崇高なるものと一体化してしまい、間違った教えであっても神の教えとして、その教えの通りに行動せざるを得なくなってしまうのであろう。宗教が戦争やテロと結びついてくるのは、人類に平等に与えられている崇高なるものが、ほとんどの人に自覚されることなく、ただ知識として学ばれてしまっていることに原因があるように思える。

いずれにしても、宗教というものの根源は、人間の心の内にある、生も死もない、あり続けている悠久な生命に端を発しているように思える。

次回の討議を平成24年7月20日(金)とした。       以 上

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