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第29回 「場」

開催日時
平成6年3月15日(火) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー東京支社
参加者
広野、塚田、鈴木、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き場をテーマに話し合った。始めに、前回でも話題になった、電話を用いた沈黙ネットワークとでも言うのか、電話は互いにオンになっている状態で、それぞれ語ることなくして、共有な空間を生み出している人達の心理状態について、場との係わりから討議した。

これは、会合において、何にも語らない状態で参加していてもその人の存在が、語るものの心理状態に微妙に影響を与えることと同じように、電話ネットワークという存在そのものが、それを用いている人の心に、あるイマジネーションを湧起しているのであろう。しかし、会議において、発言しなくても存在している人の存在感は、それを見る者の五感に直接なんらかな情報を与えているであろうが、電話の沈黙ネットワークの場合には、直接把握できる刺激は全くないものと考えられる。すなわち、そのネットワークで結ばれた者同志は、物理的な空間を共有していないのに対して、会議の場合には、物理的な空間を共有している。

何をもって物理的空間と称するかの議論は別として、沈黙ネットワークでは、その場で得られる外部的な刺激としては、電話が他の人に連っているというイメージだけである。この感覚は、実際に体験した中で議論しないと意味をなさないが、我々は、日常生活の中で、独り言を言ったり、日記をつけたり、はたまたペットを飼ってそれらに話しかけたりしているのは、自身の無意識の世界を、それらに映し出しているのではなかろうか。沈黙ネットワークは、自分ではどうしようもない無意識の世界を、安定にさせておくためのようにも思える。そして、そこでは、沈黙ネットワークによって、結ばれているという共通の場が生まれているのではないだろうか。場の一つのあり方として、他者との係わりから生まれてくる何かであるとするならば、沈黙ネットワークは、結ばれているというイメージによって、新たに生まれてくる場の一形態なのであろう。

沈黙ネットワークによって生み出される場との係わりが、新しい感性の登場として歓迎できる反面、そうまでしなければ安心できない弱さもそこには見えかくれする。子供達が、おばあさんや、おじいさんと手をつないだり、一緒にいるだけで安心できた世界が次第に消失し、身近にいる人同志でも、心を通い合うことの出来る場を生み出しにくくなっているという現状が浮かび上がってくる。

場にはいくつかの形があるのであろうが、一つの場として、場を生み出す人と、その場を構成する人との両方の存在から生まれてくる場がある。舞台での演技に感動し、その感動を肌に感じてさらに演技に熱が入る。そんな係わりから生まれてくる一体感を一つの場とするならば、演技者は、場を生み出す元となる人であろうし、観客は、その場を育てる人であろう。そして、観客が感激するその度合は、演技者の生み出すパフォーマンスであり、それは、単なる技術を超越した何かがそこにはある。そして、その場をより高いもの、より感激するものにするためには、演技者の絶えざる努力と、その努力から生まれてくる心の高まりとが必要である。観客には、その演技はできなくとも、その演技を体で受け止めることの出来る感性がある。演技者の充分な技術に則った無私の境地と、観客の自我の殻を割った対応との共鳴が大きな場を生み出しているように思える。そして、この場の快さを感じることが出来れば出来るほど、人は、その場を求めてライブに集まるのであろう。Jリーグの爆発的な人気は、サッカーの持つ競技の面白さだけではなく、観客の心と、選手の心とによって生み出される大きな場を共有できる喜びにあるように思える。見るものが、選手の心と一体になってしまったときに、その選手によってなされる妙技は、自身の妙技であり、自身の喜びでもある。

会社組織も一つの場の現れではなかろうか。多くの社員を見てみると、ほとんどの人が、直接利潤を生み出しているものにタッチしているようには思えないのだけれども、会社はどこからか自然に利益を生み出している。そこには、会社という大きな一つの場、一つの生命体を感じるのである。その辺を論理的に分析し、効率重視にしていくところにリストラの基本があるのであろうが、日本人が作ってきた会社組織は、西欧の組織とは少々違って、会社そのものが、一つの大きな生命体として働いており、直接利潤を生み出すものにタッチしている者も、そうでない者によって間接的に影響を受けながら、生命体としてのダイナミックな動きの中で、成り立っていたのかもしれない。それは、心の中での、車輪と潤滑油との関係にも似ている。

場を形作る代表的なものとして祭りがある。世界的にみると、祭りには様々な形があろうが、日本における祭りの多くは、その名が意味するように、神を「祀る」と言うことであったのであろう。祭りと神との係わりは、神の存在が、私達の無意識の心の中にあるとした深層心理から考えてみると、私達の無意識の世界を鎮めるためのものであり、無意識の世界に蓋をすることではなく、それを開放させることでもある。祭りに酔うことは、無意識の世界を開放し、全ての人達と一つの場を共有することでもある。そこでは、我と彼と言った区別はなく、皆一つの同じ心を共有しているのである。「踊る阿呆に見る阿呆..」歌の文句ではないが、踊るものも、見るものも、それぞれの立場で同じ心を共有する。そこに祭りの楽しさがある。この感覚は、現在の若者を虜にしているJリーグそのものではなかろうか。近代化、核家族化、そして、疎遠化が、地方から集りをなくし、さらに都会では、新しい祭りが育ちにくい状況にあって、今を生きる若者の一人一人の心の中に棲む神霊が、新しい祭りをJリーグに求めたとは考えられないだろうか。

以上の議論を通じて感じることは、場とは、私達一人一人が持っている心の奥にある悠久な世界を共有することではなかろうか。確かに私達の意識は、私達の肉体の誕生と共に育ち始め、死によって消え失せていく有限なものかもしれない。しかし、私達の体には、DNAで代表されるように、私達の体を体しめている長い歴史がある。それは、宇宙の歴史でもある。そして、それらは、終わりも始まりもない悠久なる世界を内に秘めているように思える。それは、手にとって、示すことはできないけれども、確かに感じることの出来る世界である。

欲しいものが手に入ったり、希望が叶えられたりする我欲の満たされることによって得られる喜びではなく、うれしくて、涙が自然にこぼれてくるような感激的な喜びがある。その喜びこそ、私達が、悠久の世界に触れている状態ではなかろうか。場とは、この悠久なる世界に触れることであるように思える。それは、一人瞑想する状態から生まれることもあろうし、自然と対極し、その自然のおりなす様々な刺激が五感にこだまし、そこから生まれることもあろう。また、人と人との係わりの中で生まれてくることもあろう。

悟りの喜びは、一人瞑想する中から、悠久なる世界を自身のものにした喜びであろうし、旅の喜びは、新たに出会う自然との対話から、悠久なる世界を感じる喜びであろうし、Jリーグに代表される熱狂は、人と人とがおりなす世界の中から、悠久なる世界を垣間みることの喜びなのであろう。場とは、何等かな形で、悠久なる世界と係わるもののように思える。

私達は、常に、生と死のある現実の世界と、生命の源である悠久なる世界との両方を持って生きている。そして、それは、あたかも演劇における舞台背景と演技者との係わりにも似ている。とかく私達は、演技者のパフォーマンスだけに、我々の神経を集中させやすいのであるが、そのパフォーマンスがどれだけ感動的なものになるかは、舞台設定との係わりが強いのではなかろうか。良き舞台設定は、その演技に悠久なる世界を垣間みせ、悪しき舞台は、演技を悠久なる世界から遠ざける。

絵画に代表される芸術作品も、その作品が見るものの心に感動を与えるか否かは、その作品を生み出した芸術家が、悠久なる心に触れながらその作品を作り出したか否かにかかっているように思える。単なる技法だけではなく、そこに作者自身の悠久なる心に源を発する何かが表現できているものの中に、見る者の直感が共鳴するのであろう。技術だけをまねた物まねと、芸術作品そのものとの違いは、この悠久の世界との係わりにあるように思える。そして、芸術家は、その作品を生み出すことによって自身の悠久なる世界を表現し、それを見る者は、その作品を通して自身の中に潜む悠久なる世界を垣間見ているのであろう。そこには、Jリーグの選手と観衆とによって作られる場と同じ様な場が、時間を超越して生み出されているように思える。

俳句には全くな素人ではあるが、これらの考えを基本にして芭蕉の俳句をみてみると、そこには、場がよく表現されているように思える。

秋ふかし隣は何をする人ぞ

「秋ふかし」という始まりが、悠久な世界に私達を導く舞台設定のように思える。もう一つ、

古池や姓飛び込む水の音

ここでも、始めの「古池や」によってイメージされる静寂さによって、聴く者の心の中に、悠久なる舞台を描いているのではなかろうか。

芭蕉の説く俳句の奥義とされる不易と流行というこの二つの係わりは、不易である場と、流行でいま起こっている現実の世界との融合によって、現実の世界の中から、悠久なる世界を垣間見ることにあるように思えるのですが。

次回は、30回記念と言うことで、特別に何かを企画しようとしたのですが、何もしないことが人間文化研究会らしくてよいという意見が多くありましたので、今まで通りのスタイルで行いたいと思います。尚、次回のテーマは「遊び」と言うことで行いたいと思います。

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