ホーム > 1998年レポート > 第63回 「創造」

第63回 「創造」

開催日時
平成10年9月18日〈金〉15:00〜18:00
開催場所
沖電気工業 三浦レストハウス
参加者
広野、中瀬、山崎、水野、青田、高木、土谷、加藤、前田〈園〉、前田〈絵〉佐藤、望月

討議内容

今回は、沖電気王業の三浦レストハウスで、久しぶりに宿を共にして討慈した。今回手ま、60回大会に引き続き土谷さんが二度目の参加であり、新たに、前田さんが泉子で参加してくれました。お母さんの前田(園)さんは、インドに魅せられ、これまですでに6回インドに行っているとのこと。行く度に新しいことを学ぶことが出来ることに、とても魅力を感じるとのことです。前田(絵)さんは、現在、慶應大学医学部の大学院1年生で、精神神経学を専攻しているとのこと。それぞれの経験の中で、新しい意見をもたらしてくれることを期待しています。

今回は、創造に関して討議した。研究者である吉田さんは、自分の経験の中で、創造しているなと感じるのは、営利追求を目的とした技術開発の中ではなく、?自然と対話しながら、新たな原理や原則を発見したりしている時であるという。そして、多くの場合、技術開発的な営みの中では、ストレスを感じるのに対して、創造的営みの中では、喜びが感じられる。創造というのが、一体何であるのかははっきりとはしないが、とにかく創造する営みの中には、喜びがあることは確かなようだ。

遊びの楽しさも、創造と係わる喜びとどこかしら共通するものがその根底には秘められているのではないだろうか。子供達が遊びに夢中になっているのは、夢中にさせる営みの中に、創造と係わるものがあるからなのであろう。よく遊びをしていながら、新たなルールを生み出したり、あらたな遊びを発見したりすることがあるが、それらの発見の根底には、創造する力が関与しているものと考えられる。

私達が、創造という言葉から連想する人達として、芸術家や研究者がいる。研究者にしても、工学系の研究者よりも、理学系の研究者、その中にあっても、より自然の原理を追究しているような研究者に、創造性という言葉を当てはめて考えてしまうところがある。

また、ヴィジュアルアートを生業としている画家とデザイナーとを比較してみると、どうしても画家の方が創造性と強く係わっているような気になってしまうものだ。これはどうしてなのであろうか。

一つ考えられることは、打算的な目的があるのかないのかということと係わってきているように思える。工学系の研究者は、自然の原理原則を追究することよりも、すでに明らかにされている原理原則を基本として、それらを組み合わせたり、改良したりすることで、商品を生み出すことを主たる目的としている。これに対して、理学系の研究者は、主として自然の原理原則を追究しており、そこには商品化という打算的な色合いはほとんどない。また、画家とデザイナーとを比較してみると、やはり一般的なイメージとして、デザイナーは、どちらかというと、社会の中で商品化されることがその目的となっている場合が多い。これに対して、画家の場合には、もちろんその営みの中には、商品化ということを前提としたものもあるのであろうが、一般的には、画家の営みとしては、自己探求と言うイメージが強い。また、人文系の学問にしても、創造と係わるイメージとしては、社会学や、人類学といったものよりも、哲学の方がより創造性と係わっていると思われる。

これらのことを考えてくると、創造ということと係わってくるものは、打算的なものではなく、自然そのものと深く係わる人間の営みの一つであると言える。研究者が自然の原理原則を見つけだそうとする営みは、自然の持つ物質的側面での原理原則であり、画家や哲学者の営みは、自然の持つ精神的側面での原理原則である。

画家は、その原理原則を求めようとして、そのプロセスを絵として表現しているのであろうし、哲学者は、それを言葉として表現しているのである。

自然は、この内在する原理原則を基本として、新たなものを生み出してきた。原子と原子との結合によって分子が生まれ、その分子が多く集まって細胞やDNAが誕生してきた。
それらは、植物や動物としての形を生み出し、人間をも誕生させた。そこには、自然が持つ創造性が内在しているのである。それは、ある意味で、工学者がやっているように、既存のものを結び合わせることによって、新たな機能を持つものを生み出す営みに似ている。

しかし、人間の場合には、そこに意識世界が誕生してきている。もし意識世界がない場合には、自然がこれまで行ってきた、既存のものの組み合わせで新たなものを生み出すという営みこそ創造性そのものであり、工学者のやっていることに等しい。しかし、先に述べたように、私達のイメージとしては、工学者よりも、理学者の方に創造性を感じる。このことは、その創造性の意味が、人間になって一つ新たに加わったということではないだ
ろうか。それは、意識の誕生と深く係わっている。

意識の誕生は、それまで混沌としていた精神世界に、ある秩序をもたらし始めた。その精神世界の誕生の中で、新たな創造性というものが芽生えてきたのである。そして、その創造性は、既存のものを組み合わせるというこれまでの創造性に加えて、自然の中に秘められていて、まだそれが無意識の状態にあるものを意識化するという営みとなって現れてきている。

自然科学者が追い求めているのは、物質的自然の中に秘められた原理原則であり、芸術家や哲学者が求めているのは、精神的自然の中に秘められた原理原則である。そして、それらは、いずれも自然という大きなものの中には、元々空なる状態で存在しているものを、人間が意識化してくるということである。無意識を意鼓化するという営みこそ、人間だけに与えられた創造性なのではないだろうか。そして、宇宙の営みは、それを進化と呼ぶならば、宇宙の持っている根源的なものを、人間に気づかせようとしているのではないだろうか。そして、それは、快感となって現れてきているように思える。

宇宙の営みは、進化という形となって現れてきているが、その進化の流れは、快さ、快感をもたらすことで、その方向性を示しているのである。食欲や性欲が満たされることを快感と感じるのは、そこに宇宙生命が進化しようとする方南性があるからであろう。ところが、人間になって、意識が誕生し、この意識によって、様々な快感を生み出すことが出来るようになってきている。それは、それまでの動物的な快感を意識的に、あるいは人工的に求めようとする営みにもなってくる。そして、薬によって快感を得ようとすることまで行われてくるのである。しかし、この快感は、宇宙が望んでいる快感ではなかろう。それは、快楽と呼ばれるものかもしれない。動物的な快感を、意識と絡めて求めている限り、せっかくの意識は、動物の域に留まっているに過ぎない。その意識が、人間をして進化させようとするのは、その意識が精神世界の賜であるように、精神世界の中にある無意識の領域に意識の明かりを灯すことであろう。そして、その営みの中に、動物的な快感とはまた違った喜びを感じるのであり、創造性が、喜びとつながってくるのは、宇宙の進化の道筋を示しているということではないだろうか。

そして、創造ということと生命活動とは深い結びつきがあるように思える。自然科学者が追い求めているのは生命活動の物質的側面であり、哲学者が求めているのは生命活動の精神的側面である。いずれにしても、内在する生命エネルギーを生き生きと発することの出来る方向に喜びを感ずるのであり、その方向に歩もうとする力が、創造ということではないだろうか。

創造と深く結びついている事柄に、想像がある。既存のものAとBとから、Cというものを想像したとき、Cは新たなものとして生み出される。その時、想像と創造とがなかなか区別できないような状況に置かれてしまう。しかし、よく考えてみるならば、AとBとから、Cというものを生み出すそのプロセスは創造であろう。あるいは、それを生み出そうとする力は、創造力ではないだろうか。そして、出来上がったCというものが心の中に映し出されてくるのがイメージである。すなわち、これを映画にたとえて考えてみるならば、フィルムからスクリーン上に生み出されるまでの営みが創造であり、その時果として、スクリーン上に現れたものがイメージであろう。私達の心の中にあるイメージが浮かび上がるが、そのイメージは、創造の賜ではないだろうか。すなわち、AとBとから、Cというものを生み出すまでの一連の力は創造であり、そのCをCとして捉えるのがイメージではないだろうか。すなわち、イメージは、創造の結果であり、そこには、力は働いてはいないように思えるのである。何かを生み出そうとする牽引力になっているのが創造の力であり、想像は、その結果生まれてきたものが、心のスクリーン上に描き出されたものの認知ではないだろうか。

以上のことを考えてくるならば、創造とは、既存のものと既存のものとの出会いによって新たなものを生み出させる力、それは仏教的に表現するならば縁であるのかもしれない。

そして、さらに、創造とは、無意識を意識化させる力であると言える。そして、人間に与えられた創造力は、様々な階層の中で、生命の根源を気づかせようとしているのではないかと思えるのである。

これを三段ロケットにたとえて表現するならば、格段に込められたエネルギーを使うために働いているのが、快感であり、その方向性を決めているのが創造力なのではないだろうか。一段目の快感だけに意識がとらわれていると、ロケットは、軌道に乗ることが出来ず、いずれは、地球上に落ちてしまうであろう。新たに浮かび上がってくる快感は一段目とは違うものであり、それによって導かれる方向に、求めるものが存在しているのである。

そして、創造は、最終段である人間の意織と結びついて、新たな進化の道を指し示す力となっているのではないだろうか。いずれにしても、創造とは、生命の活動を進化する方向へと導く力であると言えないだろうか。

次回の会を11月25日(水)に開催することにした。

以 上

コメント:0

コメントフォーム
情報を記憶する

ホーム > 1998年レポート > 第63回 「創造」

このサイトについて
月別アーカイブ
最近の投稿記事
最近のコメント

Page Top