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第68回 「恋」

開催日時
平成11年7月15日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、西山、土岐川、塚田、水野、市川、前田(園)、前田(絵)、大原、松本、徳富、橋本、藤田、大林、望月

討議内容

今回から4名の若者が参加してくれました。徳富さんは、今年春に大学を卒業され、現在(株)ベルシステム24に勤務されています。卒業論文が、宝塚歌劇団に関するものであったそうで、宝塚の事ならなんでも知っているというお嬢様です。藤田さん、大林君、橋本君は、共に慶應大学の学生で、藤田さん、大林君は、四年生、橋本君は三年生です。若さに溢れる四名が、新鮮な風を吹き込んでくれることを期待しています。

今回は、恋について議論した。恋とは一体私達のどのような心の動きなのであろうか。恋する心は、生命維持のための生物的本能と関わり、異性を対象とした心のときめきだけなのだろうか。異性を対象とする心のときめきと同じような心のときめきを同性にも感じることがある。例えば、宝塚歌劇団の団員への女性達の憧れは、同性に対する恋心のように思える。また、女子校や男子校においては、同性同士が、恋心と同じような心を抱くことがあるという。これらのことを考えると、恋心が、必ずしも性的な欲求と関わり、異性への憧憬の念に根差しているとはいえない。

恋心の根底には、性的な欲求、金銭的欲求、知的な欲求、美的な欲求といった欲求を充足させたいという暗黙の力が関わっているように思える。そして、その欲求を充足することのできない心の状態が、苦しさとなって感じられるのではないだろうか。恋心とは、欲求充足への暗黙の期待と、その欲求が充足されないことへの苦しさとが入り混じっているように思える。まさに、漱石が「終始接触して親しくなりすぎた男女の間には、恋に必要な刺激の起こる清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎ得るのは、香を焚きだした瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、避けを飲み始めた刹那になるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。」と語るように、恋には、何かを魅了し、それを手に入れる前の刹那的な心模様が深く関わっているようだ。

恋心は、快い苦しさを感じさせるものであるが、そこには、自分ではどうすることもできない心の一人歩きがある。人の心には、性的なもの、美的なもの、知的なもの、さらには金銭的なものへの潜在的欲求がたえず存在していて、それが、何らかの縁によって、突然芽生えてくるが、その芽生えようとするエネルギーを理性で制御できない状態が、恋といえるものではないだろうか。

人間の欲求には様々あるが、その欲求の中で、性的な欲求、地位や名声を求める欲求、さらには金銭的な欲求などを動物的欲求と考えるならば、恋心は、これらの動物的欲求を充足させたいとする欲求に根差している。この欲求は、我欲であり、相手の状態には関わらず、自分からの一方的な思い込みとなっている。ストーカーの行動は、まさに、一人よがりの恋心がエスカレートしたものであろうし、失恋とは、一方的な恋心が、結局は相思相愛までに成就しなかったことである。

恋は我欲に基づくものであるから、その激しい心の燃え上がりの裏には、憎しみや嫉妬といった心が潜んでいる。恋しい心が相手には通じず、失恋になってしまうと、恋心が突然憎しみとなって現れてくる。また、自分の恋している人、あるいは憧れているものに、第三者がより接近したような場合には、嫉妬心が現れてくる。恋心は、苦しさがスパイスといった言葉で表現できるように、そこには、絶えず苦しさが同居している。そして、その苦しさは、恋が成就しないときには、憎しみや、嫉妬心として爆発するのである。

ただ、恋心の奥に秘められた憎しみや嫉妬心は、それぞれの人の心の有り様とも深く関わっているように思える。若いときの恋心は、たとえ失恋に終わったとしても、そこには、相手を憎む気持ちというのはきわめて少ないのではないだろうか。これに対して、大人になってからの爆発的な恋心は、ともすると、ストーカーのような振る舞いになって現れてきたり、失恋したことで相手を逆恨みするなどの行為となって現れてくる。

いずれにしても、恋とは、我欲と関わり、動物的欲求と関わっているのに対して、愛は、崇高なる人間的欲求と関わっているように思える。愛は、与えるものであり、その結果を期待していないために、人を憎んだり、人に対して嫉妬心を起こしたりすることはない。恋愛とは、この恋と愛との混ざり合う心なのであろう。そして、恋心が相思相愛になった後、次第に愛へと変化していくのであろう。

私達は、一体相手の何に対して、始め恋心を抱くのであろうか。美しいとか、魅力的なものとかあいまいな言葉で表現されるが、同じ魅力的という言葉で表現されるものが、その対象となるものは、個人個人によって異なっている。ある人にとって魅力的に感じるものに、他の人は全く魅力を感じないということは、頻繁に起こるものだ。このことは、魅力を感じさせるものそのものが単独に存在しているのではなく、見るものと見られるものとの間の共鳴現象によって生まれてくるということである。そして、見るものと見られるものとが、ともにそれぞれを魅力と感じる共鳴が起きるとき、それは相思相愛の形となって現れてくる。それとは逆に、見るものの一方的な共鳴によって起こってくる心の衝動は、片思いとか、失恋とかいった結果となってくる。これらのことを考えると、私達に魅力を感じさせるものは、すでに私達の遺伝子に組み込まれていて、本能的に、その遺伝子を活性化させる対象物に反応しているのかもしれない。また、逆に、多くの人から魅力的として感じとられる人や物は、それ自体が、多くの人の心を活性化させる力を発信しているのであろう。

これまでの議論で、確かに、恋そのものは、心苦しいものであり、我欲的な一方通行な感情であることが分かってきたが、私達が日常感じる恋心は、多くの場合は、双方向的である場合が多い。そして、その心は、恋と愛とが混ざり合った心であるのではないだろうか。私達が、この相思相愛の状況にあるとき、私達の生きる力活性化され、仕事においても、あるいは勉学においても、あるいはスポーツにおいても、生き生きとした力が蘇ってくる。そういう意味で、恋とは、恋愛への架け橋であり、生命力の源泉と深く関わっているのであろう。

漱石が、その著「こころ」の中で、「もし愛という不思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば…」と語っているが、愛として語っているこのことが、これまで述べてきた恋愛のニュアンスによく似ている。

私達は、普段の恋愛感情の中で、動物的な我欲と人間的な崇高なるものとを垣間見ているのであろう。そして、恋とは、人や事物に対するときめく心であり、その対象とするものが、動物的欲求に基づくものであるのか、崇高なる愛の欲求に基づくものであるのかによって、その恋心の底に秘められた心に明暗が生まれてくるのではないだろうか。

次回の打ち合わせを9月8日(水)に開催することにした。

以 上

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