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第2回 「宇宙」

開催日時
平成25年11月29日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
「宇宙」について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、土岐川、下山、吉野、大瀧(茂)、伊藤(雅)、望月

討議内容

今回の討議内容も前回同様、土岐川、望月、両名のレポートを併記して報告させていただきました。

土岐川

宇宙について考えてみるということであるが、宇宙のイメージをどう捉えるかということについて考える人によって違いがあると思う。ここでは科学技術の領域に留まらず、人間文化の視点からもイメージを広げて考えたい。

宇宙開発に膨大なエネルギーをつぎ込んでいるが、その目的は何だろう。そこに住もうと思っているのだろうか。

なぜ探検をしようとするのだろうか。

例えば彗星について知ることは宇宙の成り立ちを知ることに繋がる。それは生命の由来を知ることに繋がる。知を極めたいということではないか。

フィールドを地球上に移した例で考えると、島に住んでいる人が他の島に移って生活の場を広げるようなもので、自然の摂理なのではないだろうか。

宇宙に生物を見つけたいのかもしれない。

なぜ見つけたいのだろう。
一回も見たことがないから、見て見たいという興味だろうか。

宇宙に向かうことに係る膨大な負担を考えると、観察の対象を地球に向けることも有効なのではないだろうか。地球こそ宇宙の総体である。他を探るよりも地球にいて探ればいい。
人が望遠鏡を手にして宇宙に向けたとき宇宙空間が革命的に広がった。人の内なる精神世界に向ける望遠鏡を発見すれば新たに広がる世界があるということだろう。

進化は飛躍である。飛躍にはその前にそれを阻止する力が働いているということでもある。人は自分の考え方に沿うものは受け入れるが、考えに沿わないものは受け入れない。拠り所とする自分の考え方の許容量はたかだかしれていることを考えると、考えに沿わないものでも許容して総合力の糧に換える方向に知恵を働かせることが飛躍に繋がるのではないだろうか。それを阻止する力が内在していることも事実であるが、課題として意識することで何かが変わるかもしれない。

知りたいということは、人間の欲なのではないだろうか。

欲としてひとくくりにするよりも、地位や名誉を欲する動物的欲求に対して、理性のささやきに従う人間的欲求の姿として知への探求を考えると特性が見えてくるように思える。
全ての人が知的探究を極めたいとは思わないという現実がある。内省の指向性を持って生まれてくる人とそうでない人がいるのかもしれない。あるいは、人は誰もが内省的指向性の種を抱えているのかもしれないがそれが発芽するかしないかということかもしれない。
その発芽が外に出たのがサイエンスということなのではないだろうか。

サイエンスは、個人の理解を拠り所にする価値観をいったん脇に置いてみんなが確認できることを考える対象にしてきた。それは自分だけが感じ取る確かさから目をそらすことにもなっているということでもある。科学技術の進歩という状況は内省の発芽力を抑えるという犠牲を払いながら進んできたということでもある。それは組織を運用するにも個々の指向が交錯しないということである特性を持った社会を支える基礎力になっているのではないだろうか。
人間の中心に知恵があるとしてその知恵が悪さをしているのが現実の姿なのではないか。

知恵がもたらす天国と地獄ということで、知恵が悪の根源という考えも極論かもしれない。
コスモスとは宇宙を表す言葉で秩序を保っているという意味を内包している。秩序とは一体何だろうか。

生命を継続し繁栄するということで考えると、人間と昆虫を対比すると面白い。昆虫はその種類でいうとあらゆる生命の中で最も多種多様というのが特徴である。また生まれたときに既に生命活動の完全なプログラムがプリインストールされているということも特徴である。多様な環境に対して多種という方法で対応して生息しているのである。対して人間は生まれたときの基本的なプログラムは極めて未熟である。生活しながら必要なプログラムを獲得していくのである。どっちがいいとか悪いとかいう話ではない。ただ私たちは人間として生を受けているので人として生きる方法に沿っているということである。

宇宙は145億年前のビッグバンから始まったといわれているが、現在の宇宙を生命的なイメージから考えてみると、ビッグバンという起点に集約して考えるのは、宇宙のプログラムの全てがプリインストールされているという昆虫的考え方になるだろう。人間が成長する考え方からイメージを広げれば宇宙も相互にバランスを感じて学習しながら成長していると考え方をとることもできる。

地球だけに生命があると考えることには違和感が生じる。生命の元は宇宙を構成している全てに含まれていて、身体という器と環境が備わったときに現象として発芽するということかもしれない。宇宙を知りたいというのは、生命が共振しているということかもしれない。
(文責、土岐川)

(望月)

今回は、「宇宙」と題して議論した。これまでの人間文化研究会のテーマとしては、宇宙という科学と深く係わるものをテーマとするのは珍しく、科学的な側面からだけの議論であれば、最先端宇宙物理学の議論に終始してしまうところであるが、その宇宙のもつ意味を深く考えていくと、それは、必ずしも科学の独壇場ではなく、私たちの心と深く係わってくることが分かってくる。そこで、今回は、宇宙に関して、科学的側面はもちろんのこと、小宇宙、内的宇宙、心の宇宙といった、精神、生命、生物といった様々な側面から議論することにした。

宇宙といえば先ずは目に見える太陽、月、そして星である。そして、夜空を飾る星の世界に人類はなんとも言えない夢をはせ、ギリシア時代から、数々の神話を生み出し、星座には様々な名前をつけてきた。そこには、無限に広がる宇宙が横たわっていた。手に取ろうとしてもとることのできない宝石のような光輝く星々。それは、時代を超えて美しさに魅せられる人間の心をくすぐる第一のものだった。手に取ることのできない星々を、手に取ることの可能性を引き出したのは、ガリレオの望遠鏡に始まり、人類が宇宙にロケットを飛ばし、宇宙船を作り上げてからのことである。そして、今や、その宇宙船はこの宇宙の誕生直後の光をとらえ、最先端宇宙物理学は、この宇宙の誕生の秘密を目の前に描きだしてきている。

一体、人間は、なぜ宇宙にそれほど魅せられるのだろうか。それは、単なる星々の美しさだけによるものだろうか。それとも、そうした星々の輝くはるか彼方への好奇の眼差しが、宇宙に憧れ、宇宙に心惹かれていくのだろうか。こうした宇宙へのあこがれは、過去の人類が、アフリカ大陸を誕生の地としてから、広くユーラシア大陸へと移動し、さらには、新大陸へと移動し、極寒の地である北極や南極を目指してきている流れの中にあるのかもしれない。

ただ、人間にそうした地球上を移動させようとした力は、食物を求め、よりよい生活環境としてのエデンを求めるといったある意味動物的な欲求に基づいていたのかもしれない。それに対して、宇宙へと人間を憧れさせているものは、そうした動物的な欲求に基づいたものではなく、純然たる人間の抱く真、善、美といったものへの無意識的な憧れと、好奇の気持ちによるのではないだろうか。そして、その好奇の気持ちの中には、生命との係わりがあるように思える。この地球上に人間を誕生させたその源は一体どこにあるのか。それは、みなしごが父と母とを求めてさまよい歩くのとどこかしら似た心ではないだろうか。人間は、そして私は、一体どこからきて、どこへ行くのか。その問いに対する答えが、星々の輝く宇宙の彼方にあるのではないのかという無意識的な思いが、人類を宇宙探索へと駆り立てているように思える。それは、神の住む世界を宇宙の彼方に置いてきた古代の人々の心と共鳴するものであろう。

こうしたことを考えると、私たちの心の内に自然に生まれてくる心模様そのものが、宇宙という鏡に照らし出されているように思えてくる。われわれ人間は、目に見えるものの中に、客観性と絶対性とを抱き、それを科学として発展させてきているが、科学の発達する以前、人間は、むしろ目に見えない世界を目に見える世界に転化させて、目に見えない世界を共有していたのではないだろうか。宇宙、自然と係わった数々の神話はそのことを物語っているように思える。そして、宇宙の彼方をよりよく見たいとする欲求が望遠鏡や宇宙船を生み出しているのと同じように、心の奥深いところに秘められている生命の根源を目にしたいという思いが、悟りを得たいとする思いと重なっているのではないだろうか。そして、その悟りの世界こそ、心の望遠鏡としての知恵によって見えてくる世界にほかならない。

宇宙、すなわちコスモスという言葉の源は秩序を表しているが、古代の人達は、この宇宙が、極めて調和した秩序ある世界であることを感じ取り、そこにコスモスという名前を付けた。現代科学が到達した世界も、この宇宙がきわめて統制のとれた調和した世界であることだ。この宇宙が今の宇宙としてあり、この地球上に、人間を代表とする生命体が生まれてくるには、今ある重力定数や、電磁気学に現れてくるいくつもの定数が、今ある値であることが不可欠であり、その値から少しでもずれたら生命の誕生はおろか、この宇宙の創成が成り立たなくなってしまうらしい。科学の力によって宇宙の成り立ちや、宇宙の今ある姿が分かってくればくるほど、この宇宙が、極めて秩序ある調和した世界であることに多くの宇宙物理学者たちは驚かされているという。その宇宙の秩序を科学の全く芽生えていなかった古代の人達は理解し、それにコスモスという名をつけていたというのは、まさにこの宇宙が私たち一人ひとりの心の世界の鏡であることの一つの証拠なのではないだろうか。

次回の討議を平成26年1月24日(金)とした。       以 上

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