- 2013-02-17 (日) 0:38
- 2013年レポート
- 開催日時
- 平成25年1月25日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 神について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、大瀧、伊藤(雅)、伊藤(光)、望月
討議内容
今回は、「神」と題して議論した。議論を始める前に、参加者一人ひとりに、自身が抱いている神のイメージについて語ってもらった。自分自身の心の底を貫いている何か、この宇宙の基盤となっているもの、良心を引き起こしている何か、守護霊としてあるもの、自然の営みをつかさどっているものなど、様々なイメージが語られた。ただ、そこに共通して流れているものは、目には見えない何かであるということ、それと、見るものではなく感じるものであるということだ。
科学は、まだ生命そのものの存在をとらえることができてはいないが、私たち一人ひとりが日々生きていること、その生命を育んでいる源には、科学ではとらえることのできない、そして人知ではなかなか推し量ることのできないものが存在していて、それを私たちの心の中で、神と呼ぶ存在として感じているのではないだろうか。何かに困ったとき、手を合わすその対象となるものは、見える世界にあるものではなく、一人ひとりの心の中にあって、肉体を超越したもののように思える。その存在こそ神として感じているものではないだろうか。
正月には、初詣をして、その一年の無病息災、幸せを祈るのだが、その祈りの彼方にあるものは、見えざる神の存在である。この行為が物語っているのは、病気にならないことや金運に恵まれること、あるいは夢や希望が叶えられることといった願いの根底に、自身の意識的努力によってではコントロールできない何かを感じているからであろう。その何かを神と名付けているのではないだろうか。
私たちの体のことを考えてみても、そこでは、多様な機能が全体で一つの調和した世界を生み出している。食べ物を食べ、それらが消化され、必要な栄養素が体中の細胞に行き渡り、瞬時瞬時、体のバランスを調節しながら、健康な体を保っている。歩いたり、走ったりしたときの呼吸や、心臓の脈拍数、血圧やホルモンのバランスなどなど、体中のあらゆる機能が、瞬時的な変化の中で、絶えず全体で一つの生命体を形づくるよう調和のとれた営みをしているが、そうした調和を生み出しているものの源に、神と感じるものの存在がひかえているように思える。
生態系にしても、そこで生きている何万、何十万という多様な生物が、どれ一つとして無駄なものはなく、全体で一つの調和した生態系を生み出しているが、その根底にも、神と感じられるものの存在が働いているように思える。
科学が進歩し、この宇宙の成り立ちや生命体の細部への分析が進めば進むほど、この宇宙が、きわめて統制のとれた、調和した世界になっていることが分かってきているが、そうした調和の世界を見ることによって、科学者の中にも、この宇宙が、そして、生命体の活動にしても、その背後で調和した世界を生み出しているものの存在を考えざるを得ないと主張する人も現れてきている。その存在こそ、神と名付けられているものではないだろうか。
今回出席できず、手紙で意見を述べてこられた大瀧(千)さんは、神というタイトルを目にして、真っ先に浮かんできた言葉が愛だったとして、人は愛を学ぶために生きていて、それが生きる意味だと、そして、私たちは日常生活の中で、その愛に囲まれていて、自分の置かれた環境で感謝の気持ちで精一杯生き抜き愛を大切にすることで、神様にほんの少し近づけるような気がすると結んでいる。人を愛し、自然を愛し、生きていることに感謝して生きていく中で、私たちは、私たちを取り囲んでいる神様の存在に気付いていくのかもしれない。その愛は、先に述べた調和とも共鳴するであろうし、良心や、真、善、美ともかかわってくるように思える。
私たちは、時として神の存在を感じ、祈ることがある。祈るという行為自体が、神の存在を感じていることであり、その祈りを通して、私たちは神に近づいているのかもしれない。そして、打算なき祈りの中で、心が清められることによって、心の底に流れている神の存在を私たちの意識がよりはっきりととらえることができるのではないだろうか。肉体を超越して、それは時空を超越していることになるが、目で見ることのできない世界で、この宇宙の営みを一つに調和させ、その調和した中で創造の営みを絶えず行わせているもの、それはあり続ける悠久な生命であるが、その悠久な生命こそが神そのものではないのだろうか。そして、その悠久な生命は、私たち一人ひとりのこころの底の底をも貫いていて、私たちの生命を育んでいるのであり、だからこそ、心の清らかな人は、その心の底が、まるで、きれいな海水が海底を見えやすくさせているのと同じように、自身の内に秘められた悠久の命を内なる眼でとらえ、それを神として感じることができているのではないだろうか。だから、神を信じるというのは、生命の永遠性を信じることでもあり、それは、私自身が悠久な命であることを信じることでもあるように思える。
次回の討議を平成25年3月15日(金)とした。 以 上
- 新しい記事: 第150回人間文化研究会開催案内 【最終回】
- 古い記事: 第149回人間文化研究会開催案内