- 2016-03-31 (木) 15:21
- 2016年レポート
- 開催日時
- 平成28年3月18日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「良心」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、望月
討議内容
今回は良心について議論した。良心という言葉で連想されるのは、嘘をつくこと、人を中傷すること、人をだますこと、といった行為であり、こうした行為をすることで、心の内で良心の呵責が起きてくる。普段は良心というものが心の内にあることには全く意識してはいないが、先の行為をしたときには、良心が頭を持ち上げてくる。もちろん、こうした行為に対しても、良心の呵責の程度には、個人差があるが、ほとんどの人が、こうした行為に対して、多かれ少なかれ良心の呵責を感じるものだ。
こうしたことを考えてくると、良心というのは、道徳心と若干異なり、文化や躾などによって教育されてくる心の作用ではなく、人間ならだれしもが心の内に抱いているもののように思える。道徳やマナーといったものは、文化によって異なっていて、民族間で共通なものと、全く異なったものがあるが、良心というのは、道徳やマナーといったように、見える世界に表現できるものではない。
人に迷惑をかけないとか、嘘をつかないとか、身の回りにきれいにしておくとかといったことは、マナーや道徳と結びついてくるが、良心というのは、そうした行動と直接かかわっているものではなく、嘘をついたり、人を傷つけてしまったりした行為の後に、そうした行為を反省する心として頭を持ち上げてくるものだ。だから、道徳とかマナーというのは文面化でき、具体的な行動を表現することができるが、良心は、そうした行動そのものとして表すものではない。要するに、そうした道徳とか、マナーと言ったものを知りながら、そのことに反した行為をしたときに、後になってその行為を反省する心として良心が動き始めるということだ。
ということは、人間の心の基盤には、人を傷つけたり、人をだましたりして、自分だけ得をしたり、自分だけ良い立場に立ったりすることを否定する心があるということになってくる。それは、裏返してみるなら、人を愛すること、みんなで一つの世界を作り上げていくことを是とする本質的な作用が人間の心の中には存在しているということではないだろうか。
蜂の社会を見てみると、巣を守るために、そして女王蜂を守るために、敵に対して個の命をなげうっても活動するという種社会の営みがあるが、それは、種全体で一つとする、人間社会であれば、愛の心が貫かれていることによるもののように思える。すなわち、人間にも、蜂の社会に見られるような全体で一つとする心が貫かれていて、それが愛であるのだが、人間だけは、個を意識するために、社会性と同時に自分だけの世界をも作り上げてしまっているということだ。そして、この個を意識し、個の有利になるように活動することがエゴであり、そのエゴによって人を傷つけてしまったりするときに、愛に引き戻そうとして良心が頭を持ち上げてくるということではないだろうか。
こうしたことを考えてくると、良心というのは、人間種としての基盤となっている心、それは愛として感じられているものなのだが、その愛の心から離れないように一人ひとりの心を監視しているもののように思える。そして、その愛の心から離れてしまうような行為に対して、反省させ、愛の心に引き戻そうとしているのであろう。
ただ、こうした反省の心を生み出す良心は、道徳とかマナーといった集団生活や社会といった不特定多数との係わりの中だけで頭を持ち上げてくるものではなく、他者とのかかわりのない自分自身の行動の中においても時として頭を持ち上げてくることがある。たとえば、一生懸命に働かなければいけない時や、一生懸命勉強や努力をしなければいけない時に、一人遊びに興じていたりすることに対して、もっと頑張らなければという気持ちを起こさせてくるものがあるが、これも良心と係わっているのではないかと思える。人と人との係わりにおいては、相手を思いやる心、愛の心への水先案内としての良心と、個々人との係わりにおいては、より高いものを求めて努力しようとする向上心を生み出す源としての良心がある。
この二つの働きをしている良心をよく考えてみると、それは人間をしてより崇高な心に向かわせようとしている生命の本質的な力のように思えてくる。親鸞の言葉に、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉があるが、この言葉をこれまで議論してきた良心との係わりで考えてみると、この善人、悪人というのは、良い行為をしているとか、ボランティアをしているとか、あるいは罪を犯してしまったとか、社会が判断する善人、悪人ではなく、個々人が自分自身を評価して判断している言葉のように思えてくる。すなわち、自分自身の行動に対して反省することの多い人、それは心がより純粋で良心がすぐに働くために、自分自身では悪人と思っている。これに対して、悪いと思われることをしていても、良心が働かず、気づいていないために、自分は善人だと思っている人。親鸞の表現した善人、悪人は、こうした人のことではなかっただろうか。そうすると、反省をすることなく、今のままの自分を良しとする善人よりも、絶えず反省し、より良い心になろうと努力している悪人の方が往生するのは当然ということになってくる。要するに、良心は、悪で汚れた心を浄化させ、人間をより崇高な世界に導こうと働いている心の力ということではないだろうか。
次回の討議を平成28年5月27日(金)とした。 以 上
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