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第95回 「時間と情報」

開催日時
平成16年1月30日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
古館、広野、土岐川、山崎、水野、下山、松本、吉野、椎名、望月

討議内容

今回は新たに椎名さんが参加してくれました。椎名さんは、これまでいくつかの会社に勤められた後、現在は、充電するための一時休眠期間中であるとのこと。まだお若い感性を生かし、新たな考えを披露していただけることを期待します。

今回は、「時」と題して議論した。時とは一体なんだろうか。時とは、具体的に手にとることもできず、はたまた見ることもできないものではあるけれども、物やことと係わって生まれてくる概念的なものである。

時とかかわりのある言葉で、時間がある。広辞苑の定義によると、時間とは、時の長さであるという。したがって、先ずは時があり、その時の経過する度合いが時間ということになってくる。今回は、この時と時間との区別をはっきりとはつけずに、時間ということを主に議論してみた。

我々が時間とかかわって思いつくことに、一年、一月、一日といった、太陽や月の運行と係わった時間である。これらの運行は、極めて規則性の高い変化であるから、日常に現れては消える様々な事象の変化よりも、時の流れをより確度の高い正確さで表現してくれる。それと、その時の流れが、太陽の位置や月の位置と係わって把握できることから、時間と空間との係わりも生まれてくる。そのこともあってか、東洋においては、時間を表わす言葉と方角を表わす言葉とが同じ言葉で表現されてもいる。

時間と人間とのかかわりにおいて、現代人は、益々時間を意識し、時間に支配された社会に住んでいるように思える。携帯電話、インターネットなどの普及によって、仕事のスピードも益々速まっている。確かにそれらは、便利ではあるけれども、利便性と裏腹に、現代人の日常生活は、益々時間に縛られた生活の中に陥っている。それは、まるで時間中毒にかかったような状況を生み出してきていて、定年などによって、その時間の束縛から解放された人達が、時間中毒から抜け出ることができず、再び時間中毒の社会の中に戻っていくケースも多々みられるという。

デジタル化による情報の高速化によっても、社会の時計は益々早まってきているし、競争化社会もその早まりを加速させている。新しい技術、新しい情報が次々に世の中に送り出され、人々は、その新しいものに飛びついていく。そこには熟成することのない社会が広まって行っているように思える。そのことは文化的なことにも影響を与えてはいないだろうか。じっくりと一つのことに対峙し、その中から、後世の人達の心を震撼とさせるような新たな思想、新たな芸術が生まれにくい社会になってきているように思える。

これらのことを考えてくると、古代の人たちのほうが、現代人より心は豊かに生きていたのではないかと思えてくる。確かに、今は様々なものにあふれ、利便性へのあくことなき追究は、世の中を便利にさせ、物の豊かさをもたらしはしたけれども、時間を強く意識した、余裕のない生活は、古代の人達の心以上に満たされなさを感じているのではないだろうか。まさに、ミヒャエル・エンデがその著書「もも」の中で表現していることでもある。

これらのことを考えてくると、私たちの抱く時間感覚には、どうやら二つの時間がありそうだ。一つは、太陽の運行や、時計によって計ることのできる客観的な時間であり、もう一つは、自分自身で感じる時間である。前者は、物理学がまさにその時間によって作り上げられているように、だれもが共通に認識できる時間であり、我々の社会活動はこの時間によって統制されている。そして、利便性が闊歩するのは、この客観的時間が主導する世界においてである。

一方、感じる時間は、ゆとりというか、余裕というか、ゆったりした中で感じることのできる感覚である。客観的時間の束縛から解放され、心の中を自由にする時、そこには、感性豊かな世界が広がってくる。そして、この感覚は、動物にもある感覚ではなかろうか。勿論、動物が人間と同じような感覚を抱いているかどうかは分からないが、人間の抱く客観的時間の束縛から解放された世界と共鳴する心の世界を動物達も持っているように思える。

これらのことを考えてくると、客観的時間を生み出しているのは、人間の理性であり、概念であることが分かってくる。確かに太陽や月の動きを動物達も感じ取っているであろうが、それが人間の生み出す概念的な時としては捉えてはいないであろう。ただ変化するものが、自身の感性的な世界に投影され、その変化の中で様々な心模様を作っているだけのことではないだろうか。

人間の理性は、物事を概念的に捉えようとすることのために、様々なものを分解することをしてきた。その第一の現れが言葉である。言葉は、自然界や心の世界の現象を言葉によって切り刻んできた。それと同じように、時間も、人間の理性が、変化を概念的にとらえるために、その変化を分解することによって生み出したものなのではなかろうか。

このことは、死の概念にも当てはまる。私達は、人の寿命というものを知っている。そして、死が時の流れと共にいつかはやってくることを知っている。そこには、確かに客観的な時間によって計られる時の流れがある。でも、その客観的時間が、人間の概念が生み出したものであるように、死も人間の概念が生み出したものなのだ。そして、私達は、つかの間のことではあるかもしれないけれど、客観的時間から解放され、感じる時間の中に身を置く時、そこには死のない世界が広がってくるのではないだろうか。

道元が詠んだ「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という歌がある。ここには、これまで議論してきた二つの時間が巧みに表現されているように思える。一つは、四季の変化を自然とのかかわりで表現していて、そこには客観的時間の支配する世界が描かれている。ところが、その一方で、そこには、四季の変化を愛でる道元自身がいる。それは、道元自身の感性の世界、客観的時間に支配されない時のない悠久な世界である。人間は、この二つの時を内に抱いて生きているのであり、それは、まさに不易流行の世界であり、道元がこの歌に題した本来面目の世界である。

これらのことを考えると、現代我々人間が向かおうとしている社会は、客観的時間に支配された社会であり、その歩みは日増しに速まっていっているように思える。そして、この歩みは、多分だれにも止めることのできないものではなかろうか。そして、その歩みが速まって行くということは、そこに生きる人間の価値観が概念によって作られる世界に益々深く入って行くということ、そして、そのことは、ひょっとしたら概念が作り出す死とより強く係わってくる時代になることが予想される。21世紀は、生命科学の時代だと言われている。確かに科学がDNAに代表されるように、生命と係わる世界の中にその探求の手を伸ばしてきているが、それは、人間に客観的時間をより強く意識させることでもある。そして、生命までもが感じる世界でとらえられるのではなく、客観的時間の中でとらえられていくことが当たり前の時代になってしまうように思える。

確かに時は流れ、今を生きている人たちもいずれはこの地球上から姿を消していくことは確実なことではあるけれども、その一方で、自然を愛で、人を思いやるその心は、今を生きながら悠久な世界に生きていることを感じさせてくれるのではないだろうか。

次回の討議を平成16年3月29日(月)とした。

以 上

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