- 2005-04-09 (土) 23:37
- 2004年レポート
- 開催日時
- 平成16年9月17日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、山崎、桐、水野、下山、大井、佐藤、望月
討議内容
今回は、大井さんが新たに参加してくれました。大井さんは、現在城西国際大学の4年生で、(株)ベルシステム24にも勤務されています。野球やサーフィンが趣味というスポーツ青年です。若々しい感性で、新たな考えを披露してくれることを期待しています。
今回は、「精神」と題して議論した。精神を議論する上で、忘れてはならないものに心がある。心と精神とは一体どこが違うのであろうか。心は、動物にもあるように思えるが、精神は人間とだけに係わったもののように思える。そして、心は「壊れる」という言葉とかかわりをもち、精神は「崩れる」という言葉との係わりが強いように、心は生来もっているものであるのに対して、精神は、人間の成長と共に育まれていくものであるようだ。要するに、精神は、生来もっている心を基盤として、その上に人間として新たに構築された心の世界であるということだ。
大井さんのお祖父さんは、90歳と高齢で、少しボケ的な症状が出てきているが、そのお祖父さんが脳を検査してもらったところ、脳細胞がほとんどなくなっているらしい。それにもかかわらず、元気に絵を描いたり、書を書いたりと文化的活動を続けていて、診断した先生も驚いていたそうだが、その要因は、意志の強さ、精神力の強さだと考えられているとのこと。ハード的には脳が退化しているにもかかわらず、しっかりとした人間活動ができている源に、精神力、意志力がある。このことは、精神が、単なる心ではなく、人間の意識できる意志と係わった心の世界であることを示しているように思える。
また、痴呆の病に陥ってしまった元消防所長が、普段は、全く人と話のできない、自閉的な症状を示しているのに、「所長!」という他者からの呼びかけで、いきなり生気を蘇らせるようなことも起きている。その所長に生気を蘇らせたのは、精神的な力であるような気がする。これらのことを考えると、人間の生命を維持している源に、精神が深く係わっているということだ。
自殺という行為は、人間以外の動物にもあるのかもしれないが、思い悩むことから自殺に走るというのは、人間だけであろう。その思い悩むというのは、精神との係わりから起きてきている。精神が迷ったり、精神が乱されてくると、生きる支えを失い、生気も消えかかってしまう。
華厳の滝から飛び降り、自ら命を絶った藤村操の最後の言葉に、「人生不可解なり」というのが残されているが、この人生を不可解なものにしているのも精神とのかかわりであろう。そして、その不可解なものを不可解でないようにしようとするのが、哲学であり、仏教修行であり、それらはまさに精神鍛錬そのものである。このことは、精神とは人間的生命そのものであるということを物語っているように思える。すなわち、動物や植物を共通に貫いている生命は、人間になって、もう一つの生命を作り上げたということである。動物や植物の生命は、主として物質的なもの、すなわち水や太陽、大地に含まれる栄養素、そして食物といったものと係わり、それらによって生命は維持されていく。これに対して、人間の場合には、動物や植物と同じように、物質的なものと係わって維持されていく生命の他に、もう一つ、精神と係わって維持されていく生命の両方を持っている。
このように見てくると、自殺という行為の多くが、心の糧を得られなかったことから生まれてきていることが分かる。心の糧と表現されるその心は、精神のことを表現している。それは、人間だけに与えられたものであり、人間は、どんなに動物的に生命を維持できたとしても、精神的世界での生命を維持することができなかったならば、それはまさに死に至る病となるのではないだろうか。
これらのことから考えると、心は、植物にも動物にもある内的世界の基盤であり、それは人間においても共通に貫かれている。その心の基盤の上に、人間は、さらに概念的ともいえる心の世界を与えられた。それが精神なのではないだろうか。だから、精神というのは、人間としての心ということになろうか。それは、生命と係わり、理性と係わり、概念と係わってくる。
創造力というのは、森羅万象の中に秘められているものであり、それは、生命の秘めた力である。その創造力と人間は意識できる意志で係わりあうことができる。それと同じように、森羅万象の中に秘められた心としての生命を、人間は、精神力によって意識的に係わることができるようになったということだ。これらのことを考えると精神とは、生命と意識的に係わることのできる心の世界ということではなかろうか。
次回の討議を平成16年11月26日(金)とした。
以 上