- 2006-02-17 (金) 0:14
- 2006年レポート
- 開催日時
- 平成18年1月25日(水) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 意識
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、下山、吉野、望月
討議内容
今回は「意識」と題して議論した。意識とは一体なんだろう。改めて意識をとらえようとしてみると、それがなかなか具体的なものとしてとらえられないことに気付く。それは一体どうしてなのだろうか。我々が何かを意識しているというのは、何かに気づいているということだ。したがって、それは記憶とも深いかかわりを持ってくる。
人に気付かせ、意識させるものとして言葉がある。言葉が生まれた途端、それは意識となって現れてくる。例えば、意識、無意識という言葉がなかった時、無意識の世界があるなどということは考えなかったであろうし、意識ということもあえて浮かび上がってきはしなかったであろう。言葉が生まれたことによって、今まで無意識にとらえていたものが意識化されてくる。だから、名前も個々人を意識化する大切なものなのであろう。逆に、名前が与えられたことで、自我を意識するようになったのかもしれない。
それでは、意識は言葉がなければ存在しないのであろうか。蟻や蜂の行動は、単に本能というだけで片付けられてしまう無意識の行動なのだろうか。蟻が歩いているその前に指をかざすと、それを迂回したり、それから逃げたりと行動を変えていくが、その行動は、本能だけで片付けられるものなのだろうか。そこには、個としての蟻の意志があり、その行動をとるということ自体、指を認識し、その周りの環境を認識した上での意識的行動に思える。要するに、環境とかかわりながら、自ら行動できているということは、そこに意識があるからなのではないだろうか。ただ、それが人間の意識と違うと感じるのは、その意識を支えている記憶力とか創造力といったものの違いがそう感じさせているのではないだろうか。というのは、案外と人間の意識的行動も、その源は、直感的なもの、無意識的なものに根ざしているからだ。
確か、ニーチェだったと思うけれど、哲学者が意識的に考えていると思っていることも、人間の心の深い所にある本性的なものによって支えられているものだと言っていたけれど、そうなのかもしれない。人生を考えたり、生きる意味を考えたり、認識について考えたりという哲学的なテーマは、ギリシア時代を生きた哲学者達にしても、近代の哲学者達にしても、同じテーマとなっている。それは、哲学者個人個人は、自分の意識で考えているとしているけれど、それらのテーマに取り組もうとするその指向性は、人間の抱く無意識の世界と深くかかわっている。先に述べた蟻や蜂の行動も、蟻や蜂の直感に支えられた行動であり、その直感は、蟻や蜂の意識を刺激しているにちがいない。その意識があるから、直感からのメッセージを行動に移すことができるのではないだろうか。すなわち、意識とは、無意識からのメッセージを司る僕のようなものだということだ。そして、その意識が、先に述べたように、人間になって、記憶力や創造力、さらには言葉というものによって支えられているために、より具現化した意識となって感じられてくるし、時空間の壁を越えて意識を持続できるために、意識が人間だけに与えられたものと感じられているのではないだろうか。
人間だけが持っているであろう意識として、自分をもう一人の自分が認識するという意識がある。自分を自分でほめてやりたいと表現したマラソンランナーのように、我々人間は、自分をもう一人の自分が見つめているような心の世界を抱いている。その心は、意識と深くかかわっているが、その意識は、動物や昆虫にはない意識であろう。心理学の世界では、相手の気持ちを推し量ることのできる能力を心の理論と表現しているが、この心の理論は、チンパンジーのように人間に近い動物にもないらしい。すなわち、意識の根源的なものは、人間も動物も同じであるのであろうが、この心の理論を生み出す意識の世界だけが人間特有なものであり、その特有な意識世界を人間は意識として感じているのかもしれない。
それでは、その心の理論を生み出す意識は、一体何によってもたらされているのだろうか。もし、人間に直感しかなかったなら、動物や昆虫と同じように、自分自身を振り返るというような心は生まれてはこなかったであろう。人間が自分自身を振り返ることができるのは、直感の世界を言葉に変換することができる機能を持ったことによろう。すなわち、人間に言葉を用いることを可能にさせた能力が、自分を自分で振り返る力を与えているということではないだろうか。それは、理性と深く係わっているように思える。要するに、人間が理性を得たことで、意識の世界を、それまでの直感だけにかかわっていたものから、概念の世界まで拡大することができたということではないだろうか。二人の自分が同居しているという感覚は、直感の世界と理性の世界との二つの世界に意識がかかわっているからであろう。
スポーツ選手の中には、鍛錬したことによって、ボールが止まって見えたり、相手の動きが良く見えたりして、技が研ぎ澄まされている人がいるが、そのような人たちも、始めは部分部分について研究し、訓練している。それは、理性的なものによって意識化されたものであろう。ところが、その理性的なものによって意識化されたものを訓練していくうちに、理性を通り越して体で感じがつかめてくるようになる。それは、もはや部分的なものではなく、相手もボールも含めた全体で一つの世界である。すなわち、意識から無意識への移行であり、理性的把握から直感的把握への移行である。ただ、この時、選手は無意識なのだろうか。無意識でボールを打っているのであろうか。そうではなかろう。むしろ、部分を理性によって把握しながら、鍛錬によって、全体を一つにとらえることのできる直感を涵養し、その直感に基づいた意識が働いているということではないであろうか。要するに、人間が生み出したもの、それは道具作りであれ、芸術であれ、スポーツであれ、そうしたものは、先ずは理性が指導的立場にある。その理性によって、人はそれらのものを覚えていく。しかし、鍛錬によって、その理性によって指導されたものが、次第に直感の世界へと移動して行く。それを人は無意識ととらえているのではないだろうか。すなわち、人間が意識といっているのは、理性とかかわった物事であり、無意識といっているのは直感とかかわった物事であるということだ。
以上のことを考えてくると、意識それ自体は、司令塔のようなもので、その司令塔に入ってくる情報が意識とかかわってくる。したがって、昆虫や動物の世界では、それが五感とかかわり、直感とかかわった情報に限定されているのに対して、人間の場合には、直感とかかわった情報の他に、理性とかかわった情報が増えているということであろう。そして、意識の持つ力は、ひょっとしたら、基本的には変化も進化もしていないのではないだろうか。むしろ、先に述べたように、意識を支える直観力であるとか、記憶力であるとか、創造力であるとかいった力が新たに与えられたり、進化したりしていることで、司令塔としての意識の見る目が広がっているということではないだろうか。意識が、時代と共に変化するのか、それとも変化しないのか、このことについては、議論が途中で終わってしまった。またの機会があれば、その辺のところも議論してみたいと思う。
次回の討議を平成18年3月7日(火)とした。 以 上
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