- 2013-03-20 (水) 22:22
- 2013年レポート
- 開催日時
- 平成25年3月15日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 人間について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 佐藤、土岐川、下山、高須、吉野、大瀧、大瀧(ち)、伊藤(雅)、伊藤(光)、望月
討議内容
今回で人間文化研究会も百五十回を迎え、一つの区切りとして、ひとまず今回をもって、この会を閉じることにした。そうした意味もあって、今回の討議内容は、人間文化研究会の名前になっている「人間」について、改めて議論してみることにした。
議論を始める前に、参加者一人ひとりに、この宇宙に人間がこうして生きていることについて、人間の誕生が偶然なのか、それとも必然なのかについて聞いてみた。
この宇宙が誕生して135億年、地球が誕生して46億年、そして、人類がチンパンジーと別れ人間へと進化する道を歩み始めて700万年という、とてつもない長い時間を考えると、人間が誕生してきたのも偶然のようにも思えるし、でも、心の底で、単なる偶然としては片付けられない何かを感じるという意見。確かに宇宙的な時間を考えてみると、様々な生物が生まれ、その中から人間が誕生してきたことが偶然のようにも見えるが、そうした目に見える多様な生物を生み出している根底には、必然的な何かが働いているように思えるという意見。この宇宙を誕生させた背景には神の理想が働いていて、その理想をとげるために人間は必然的に誕生してきたのではないだろうかという意見。自然は、人間のためにどのような働きもしていないのだから、人間の誕生は偶然としか思えないという意見。何かをしようという意志を持っているのであるから、人間の誕生は必然ではないかという意見。誰に教わるのでもなく、自然に心の内から、生きることの意味を考えるという人間に与えられた課題がある以上、そして、過去の聖人といわれる人たちが、その課題に挑戦し、それを乗り越え、高い境地に達していることを考えるならば、人間の誕生は必然なのではないかという意見。などなど、人間の誕生を考えるとき、単純に偶然としてだけでは片付けることのできない何かを、ほとんどの人が感じているようだ。
人間には、言葉による複雑なコミュニケーションを可能にしたり、多種多様な道具や機械を生み出す能力があったり、芸術作品を制作したり、亡くなった人を弔ったりするなど、他の生物に見られない能力を持っている。こうした能力が人間に与えられているというのは、人間には、他の生物と違って、この宇宙で何かをなさなければならない使命のようなものをもたされて生まれてきたのだとも考えられる。もしそうした使命があるとしたら、それは一体何なのだろうか。
伊藤(光)さんは、もう50年以上も華道の道を歩んでこられているが、その中で心がけてきたのは、一つ一つの花や木を、花や木としてだけではなく、さらに創意あふれた何かとして形作ることであった。ところが、時として、その創意あふれたものということに心が囚われてしまうと、大きな壁にぶち当たり、花を生けることができなくなってしまうことを何度も体験されてきたそうだ。そうした壁にぶち当たった時、その壁を乗り越えるのは、創意というたすきを取り払うことだったという。要するに、意識があまりにも働きすぎると、前に進めなくなってしまう大きな壁にぶち当たるが、その壁を乗り越えるには、意識のたすきを取り払い、無意識の世界に心を任すことだったと。
人間だけが意識と係わって創意する力を与えられているが、その意識があまりにも強くなりすぎると、自然な営みができなくなってしまう。動物たちは、生きることの意味など考えることもなく、ただ、与えられた本能にまかせて日々を生きている。人間だけが、生きるという必然的なことに、なぜという意識を働かせてしまう。その意識があまりにも強くなりすぎると生きていくことができなくなってしまう。ただ、その意識をさらに高め、これ以上答えがないと思えるところまで意識を活性化させる、それは知恵を活性化させることになるのであろうが、そうなると、理屈では語れない分かったといえる悟りの世界が生まれてくるのではないだろうか。要するに、元々動物のように無意識のまま生きていたことに対して、人間は何故という意識を働かせ、さらにその意識の究極のところでは、再び無意識になることによって、この宇宙の営みをとらえることができるのではないだろうか。ソクラテスが言ったとされる無知の知というのは、そうした意識によって作られてしまう壁を知恵によって乗り越えた結果、この宇宙の営み、生命の営みのすべてが理解できることを語りかけているように思える。
科学がこれまでなしてきたことは、宇宙、自然というものに対するあくなき探求であり、その探求の根源には、人間をして、生命自体を覚知させようとする生命の力が働いているように思える。この宇宙の始まりは、渾沌としていたもの、その渾沌の世界から、太陽が生まれ、地球が生まれ、その地球上に、生命体が生まれ、様々な生物が生まれ、そして人間が誕生してきた。その人間に与えられた使命は、与えられた意識と知恵とによって、森羅万象の中を貫いている悠久なる生命そのものを覚知することなのではないだろうか。それは、始めは無意識であったものを意識化させるというウロボロス的な営みを悠久な生命がなしているということであり、その最後の使命を託されたものが、人間であるということではないだろうか。
完
- 新しい記事: 人間文化研究会閉会の辞
- 古い記事: 第150回人間文化研究会開催案内 【最終回】
コメント:1
- 塚田啓一 13-10-16 (水) 5:22
-
塚田です。
次回出席のつもりですが、この前時間切れで言えなかったこと。
どなたかが日本人、もう少しまともになったらという発言に対して。
経済学で有名な寓話。「マンデヴィル蜂の寓話」。ものすごく栄えている蜂の社会があった。
夜の繁華街は喧騒に満ち、社会は賄賂がはびこり、みんな愉快に暮らしていた。
しかし、こんな状態ではまずいと反省しだした。
社会は、生真面目になり、理想と思われる、生活になった。
ところが、税金が入らなくなり、軍隊が保てなくなり、隣の国に攻め込まれ、
滅びてしまいましたとさ。こんな筋書きでした。
塚田。