- 2005-04-09 (土) 2:10
- 1998年レポート
- 開催日時
- 平成10年5月28日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、土岐川、山崎、水野、桐、吉田、高木、高田、加藤、佐藤、望月
討議内容
今回は新たに三人の方が参加されました。高田さんは、前回60回大会の時に参加され今回が二度目です。現在、婦人服の会社の相談役をされていまずが、向学心旺盛で、いくつかの大学の公開講座を聴講されているとのこと。新たな自分を発見するよい機会だとのことです。加藤さんは、沖電気に勤められていて、長い間通信技術の開発に尽くされてきました。趣味は山登りで、お酒も相当嗜むとのことです。人生経験豊かのお二人が、新たな風を吹き込んでくれることを期待しています。(高木さんは少し遅れてこられて自己紹介の時間に間に合わなかったのですが、日清製油で生活研究をしておられます。)
今回は、進化について議論した。進化について、議論する前に、進化という言葉の意味を定義する必要があるのでしょうが、今回は、その定義を曖昧としたまま自由に討議を進めた。
進化という言葉が意味するものは、生命進化とか生物進化とかいわれ、生物が、単細胞生物から様々な種に枝分かれしながら、変化してきたその歩みを一般には表現している。人間に関していえば、受胎し、母親のお腹の中で10カ月余り成長する過程は、数億年の生命進化の過程をすべて表現しているという。これらの過程を見ると、生物は、確かにある方向に向かって進化し、人間にたどり着いている。その変化は、単に種がその種を残そうとする単純な営みの流れの中でたまたま生まれてきている変化なのであろうか。それとも、自然は、その進化によって、私達生物に何等かなことを示そうとしているのであろうか。
人間の形態がこれから数万年後、あるいは数十万年後にどの様に変化するかは分からないが、これまでの進化の過程は、自然の力ではあるが、何等かの方向に私達を向かわしめているように思える。形態的な変化は、単細胞から魚の形を経て、人間へと変化してきていることは、これまでの進化学が明らかにしてきたことや、受胎の成長過程を見ることによって、ある程度想像がつくが、精神的な進化に関しては、どの様に考えられるのであろうか。
一つ考えられることは、人間が社会的な生物として進化してきているということであろう。例えば、猿の世界では、雄と雌という性的な営みの違いはあっても、父親という存在を持たないらしい。父親という存在は、人間になってはじめて生まれてきたもののようだ。あるインディアンの世界では、母親は子供を暖かく抱きしめるため、父親は山に子供を連れて行き広い世界を見せるためにあるという。この父親と母親という役割にみられるように、人間のこれまでの営みは、役割を分担してきている営みのようにも思える。
原始時代の人達は、生きて行くために、一人ひとりが自ら獲物をとったり、食物を採集したりして過ごしていた。現在では、食物確保は、ほんのわずかな人達の手に委ねられ、それ以外の人達は、その他の物作りやサービス業へと分業してきている。人間は、分業することによって、元々持っていた能力や機能を退化させていることは確実であるが、その退化の代償として、何かを発達させているのであろうか。一つ確実にいえることは、これらの分業によって、上でみたように、多くの人は、生きて行くために不可欠な食糧確保に対して、直接手を下さなくてもすむようになっており、その結果として、教育をはじめ、文化的なことと係わる時間を多く持つことができるようになってきたということではないだろうか。
生物の進化を、形態的な進化としてみてみると、獲物を確保するために、爪をはやし、早く走ることができるような筋肉を発達させ、大きな口と歯とを発達せしめた。これらの機能的な面から人間を見てみるならば、人間の生み出している様々な道具は、形態的な一つの進化としてみることもできよう。そして、その進化は、人間の意識と創造性との賜であり、その結果として、上でみたように人間の営みの多くを、文化と係わるものの方に向かわしめている力を感じるのである。
すなわち、人間になって、生命の進化が、形態的な進化から、精神的な進化へと大きく変化し始めているのではないだろうか。形態的な変化では、その変化の様子がはっきりと外観に現れてくるので、把握することが容易であるが、精神的な変化となると、内に秘められたものであるし、個人個人によって異なっていても、その違いをはっきりと区別することがなかなかできないというところがある。
ただ、1万年ほど前の人類と現在の私達を比べてみると、それほど形態的には変化していないし、多分、脳の構造にしてもそれほど大きな変化が起きてはいないものと想像される。しかし、これまでに人間が生み出してきた道具に関しては計り知れないし、また、教育によって得られた精神的な向上についても、大きな進歩があったとみることはできよう。すなわち、私達の脳の構造は、1万年ほど前の人達とほとんど同じであるにも係わらず、その脳を活用することによって、新たな世界を人間は作りだしてきたということである。このことは、人間の考えようとする意志力、工夫しようとする創造力が、人間の脳の機能を変革させてきているとも考えられる。
私達は、その創造力によって、いままで気付くことのなかった様々な事柄に気付くようになってきた。月に始めて足を踏み入れた宇宙飛行士が、月にやってきたのは、月をよく見るためではなく、地球を見るためであると語ったということであるが、宇宙船が開発されたことによって、人間は、地球を客観的に見ることができるようになったし、そのことによって、宇宙観、生命観にも変化をもたらしている。
また、原子や分子の発見、さらには素粒子の存在予測といったことなどによって、私達の生命が、宇宙の長い営みの中から生まれてきているのであるという生命進化を捉えることができるようになった。
そして、これらの流れを見てみると、人類のこれまでの進化は、それまで無意識だったものに、意識の明りを灯す営みであったように思える。地球環境の問題に関しても、それまで意識することもなかった問題が、科学的に明らかにされ、多くの人達が、そのことに関心を持つようになってきた。そのことがなければ、人間は、自ら開発した様々な道具によって、自分達の生命場であるこの地球を加速的に破壊していたかも知れない。
人類のこれからの流れがどの方向に進んで行くか分からないが、生命進化の過程が、突然変異と自然淘汰との係わりから成り立っていたように、人類のこれからの進化は、人間の創造力によって淘汰されて行くようにも思える。
私達の生活を見てみると、現在の若者達は、パソコン、ファミコン、携帯電話といったものに囲まれ、それらの道具によって、新たな世界を作っている。それらは、今の大人達が子供であった頃の世界とは大きく異なっている。それが百年前、千年前となると、今とは全く異なった生活環境が展開していたであろう。しかし、そのような生活環境の変化、それを進歩と呼んでもいいのかも知れないが、その変化があったとしても、そこに生活している人達のこころの世界は、ほとんど同じ様な世界ではなかったであろうか。新たな道具によっては満たされない何かを感じながら生きていたに違いない。そして、その満たされなさを無意識ながらも満たそうとする営みが、人間をある方向に向かわしめているようにも思える。
いずれにしても、上でみてきたように、人類の営みは、それまで無意識であった事柄に意識の明りを灯すことであり、そのことは、物質や宇宙という外の世界だけではなく、一人ひとりのこころの中に宿る無意識の世界を意識化することでもあるのではないだろうか。
次回の開催を7月16日(木)とした。
以 上
- 新しい記事: 第62回 「生きがい」
- 古い記事: 第60回 「心の豊かさとは」