- 2005-04-09 (土) 22:43
- 2001年レポート
- 開催日時
- 平成13年7月9日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、塚田、山崎、桐、水野、下山、松本、吉野、大滝、望月
討議内容
今回は場について議論した。私たちは、一人で生きているようでいて、無意識のうちに他者を意識し、他者と共に作り出す場の中で生きている。会議や講義に参加していて居眠りをしてしまうことがあるが、居眠りは個人的な営みではあるけれども、それによって場全体を乱してしまう。講義に参加している人の中で居眠りしている人がいると、それは講義する者の心に何らかの影響を与える。自分の講義がつまらないのだろうか、理解されていないのだろうかといった意識が働き、講義への集中度が低下する。その集中度の低下は、講義内容のつまらなさとなって、講義をまじめに聞いている者の心に微妙に影響を与え、全体の雰囲気を乱すことになってしまう。参加者全員で作る場が、居眠りをするものの存在によって乱されてしまうのである。
これとは対照的に、聴く者の真摯な態度は、語る者の意識を集中させ、講義に集中させる。そこからは、創造的であり、有機的な情報が生まれ、聴く者の心を捉える。そこには、講義としての共通の情報によって一つにまとめ上げられた場が形成される。それは、音楽のライブとも通じる。見る者、聴く者ののりが、奏者の心を高揚させる。その高揚した心からは、聴く者の心に感激を呼び起こす何かが生まれてくる。その感激によって、聞く者達の心は益々高まり、奏者もまたより集中して演技に取り組むようになる。聞く者も、奏者も、共に場を構成する分子であり、聞く者と奏者との間に正のフィードバックがかかることによって、場は高められていく。
このように、場は、人と人、人と物、人と自然との係わりの中で形成されていくものである。そして、特に人と人との係わりによって形成される場は、それを構成する人たちの創造性と密接な係わりを持っているようだ。たとえば、ブレーンストーミングのような創造的会合では、はじめは意識が強く働いてしまうために、そこで交わされる会話は知識的なものが多い。知識で物が語り合われているときには、まだ意識が強く働いている状態であり、場の形成は弱い。ところが、次第に意識から開放され、無意識の中に秘められた創造性を発揮するにしたがって、全体で一つという場が形成され、きわめて高い創造の場が形成されてくる。このように、場の形成には、無意識の世界に蓋をしている意識の枷を取り除くことが必要なのだ。意識への執着から心が開放されるとき、無意識の中に秘められた創造性が高められ、それだけ場が強く形成されるにちがいない。すなわち、場とは、無意識の世界に秘められた統合力であり、その統合力は、創造性と結びついてより強いものへと成長していくのではないだろうか。
よい場が形成されるとき、そこには必ず創造性とかかわる集中力が秘められている。よい場が形成されると、生命力が高まり、生き生きとした場が生まれてくる。これに対して、場が悪いほうに形成されると、そこでは生命力が枯渇してしまうことになる。いじめの問題も、自然発生的なものが多いのであろうが、いじめの対象になっている者が、場を形成する火種となっている。いじめをする者も、相手をいじめなければ自分がいじめられてしまうといった直感からくる危機意識があるのであろう。そこには、陰湿な場が形成される。全体で一つという場の形成ではあるが、その場からは、生命力の枯渇した殺伐とした世界が広がることになる。
場には、二つの場としての特徴がありそうだ。その一つは、ブレーンストーミングや団体球技のような場合に見られるもので、集中してくるにしたがって、そこには、一人一人の持つ能力を自然に高めるような、正のフィードバックがかかる。そこからは創造の芽が豊かに育つ。これに対して、いじめのような場は、いじめの対象となった人の心から、生き生きと生きる力を奪い、場を構成するメンバーにしても、やがて暗い陰湿な心の世界に陥ってしまう。そこには、神と悪魔のように、共に無意識の世界に棲むものではあるが、そして、共に場を形成することで生まれてくるものではあるが、全く異なる二つの場が形成される。神と係わる場は、集中することによって、場を構成する者達の創造性を高める。これに対して、悪魔と係わる場は、場を構成する者達の生命を歪め、生き生きとした生命エネルギーを奪ってしまう。
この場を形成する二つのものは、愛との係わりによっても垣間見ることができる。子供を愛する心の底から、悪魔が顔を出すとき、それは幼児虐待となって現れる。悪の心によって形成される場は、いじめの現象に見られるように、人の心から生きる力を奪い取っていくのに対して、神の心によって形成された場は、一人一人の持つ生命力を高め、生き生きとした世界を作り出す。
電車内での暴力や口論の増大は、現代を生きる者達の心の中が、神の心で満たされているよりも、悪魔の心で満たされてきていることに起因しているのではないだろうか。それは、エゴがはびこる世界、意識がより強く意識化されていることから生まれてきているように思える。意識が高まるということは、それだけ時間とのかかわりが強くなる。インターネットの普及による情報の高速化、運輸機関の発達による行動の高速化、それらがもたらす一分一秒を競いあう社会、そのスピーディな現代社会の中にあって、ゆとりを忘れた現代人は、それだけ強く意識とかかわり、エゴと係わっているのである。そして、そのエゴの台頭が、社会という場を歪め、家庭という場を歪め、学校という場を歪め、職場という場を歪めてきているのではないだろうか。一人一人が、豊かに創造性を発揮するには、世の中があまりにも早く動いているのである。その動きの速い世界の中で、誰よりも先に前に出ようとして、一人一人の心に余裕がなくなってきているのである。その余裕のなさが、神の心を浮かび上がらせるよりも、悪魔の心を浮かび上がらせていて、社会という場を歪ませているように思える。
いずれにしても、われわれが感じ取る場は、意識によって形成されるのではなく、その意識を忘れたときに形成されるものである。そして、その場が、豊かな創造性によって形作られるとき、そこには、豊かな生命力であふれた場が形成されるのである。すなわち、場とは、生命だということではないだろうか。
生物のもつ棲み分けも、場によって形成されているものの一つであろう。すべての生物は、場を形成する能力をもともと持っていて、同種のものたちは、その種に特有な場を形成していて、それが棲み分けとして現れているのであろう。そして、人間の場合には、この場が、社会の常識を作ったり、世間という場を作ったりしているのである。世間には、人を人間としての棲み分けの世界に引き入れようとする暗黙の力が秘められていて、悪の芽を摘み取る働きをする一方で、個性の芽を摘み取る働きもしていたのであろう。ところが、現代社会は、その世間という場の力が希薄になり、悪の芽を摘み取る力が衰えてきているようにも思える。世間という場の力の衰えは、現代人が、場を形成する創造性を豊かに発揮することへの努力を怠り、個性の芽を伸ばすことがエゴに生きることであるといった誤った価値観のとりことなって、エゴを台頭させてきているところから生まれているように思える。
ペット化された犬が、犬と犬との喧嘩で、負傷するケースが多くなっているという。小さな犬が大きな犬と喧嘩し、負傷してしまうケースもあるという。身の丈を知らない犬、相手の力を知って自分の力を抑制しようとしない犬、野生の犬なら当然身の丈を知り、それを知ることで生き延びる力が自然に与えられるのであるが、ペット化されたことによって、場を把握する力が衰えているのではないかという。人間社会においても、一番情操教育がなされなければいけない時期、子供たちは、まるでペット化された犬のように、一人一人の時空間の中で生活することを余儀なくされていて、人間としての場を形成する能力を育むことができなくなっているのではないだろうか。こうした情操教育の欠如が、相手を思いやる共感の心や、豊かな言葉で自分の感情を表現することのできるコミュニケーション能力を奪ってきているのかもしれない。そして、これらの結果として、集団生活の中で不可欠なよりよい場を形成する能力を退化させてきているように思える。
場とは、一人一人の無意識の世界に秘められた統合する力であり、それは、生命そのものでもある。場の破壊は、生命の破壊である。現代社会が抱える問題は、科学という無機的なものによって生まれてきた科学技術が、利便性と称して、物と物、人と人との間に形成されていた場を知らず知らずに切り落としてきていることから生まれてきているように思える。利便性を高めることや実用的なことへの教育に重みがおかれてきているが、今一番必要とされる教育は、場を創出する力を育てるための教育なのではなかろうか。
次回の打ち合わせを9月17日(月)とした。
以 上
- 新しい記事: 第81回 「感性」
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